東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本日本刀 スカーッと爽やか 日本刀♪」

其の55(大平(変)記・大太刀ブーム)

愛三木材・名倉 敬世

 南北朝の騒乱は日本の北から南までを巻き込んだ大戦でございましたが,最大の特徴は勝者と敗者が短期間に何回と無く猫の目の如く入れ替わるという珍なる戦で有りました。結局,終って見れば天皇方(公家)のボロ負で,武家方(足利尊氏)の完勝となり,「正義とは何だ,勧善懲悪とは何だ」と云う,我国を長年に亘り支配をして来た「倫理観」を問われる戦でもありました。結果は皮肉にも平和を求め麻の如く乱れていた国が,以後は237年の長きに亘り曲りなりにも足利幕府が続き,当時の世界的な尺度から見れば平和国家が出現。中国の元王朝(フビライ)に1271年に仕えていた事のあるマルコポーロが帰国後に書いた「東方見聞録」が日本を「黄金の国ジパング」として世界に紹介し大ベストセラーとなり,それを決起に西洋列強の大航海時代がヨーイ・ドンでスタートとなる訳でご猿。
出陣影 絹本著色
 武将の出陣をする姿を描いた
所謂出陣影は,足利尊氏像をは
じめ足利義尚像・細川澄元像な
どが著名で,それらはいずれも
甲冑に身を固め駿馬に乗った姿
で表わされている。
 本作もそれと同様な意匠で,
若武者の騎馬姿と兵卒姿が美し
く描かれる室町時代を下らない
優品である。
 この図は後醍醐天皇の皇子・大搭宮の出陣図ですが,従者の持つ太刀・長巻・脇差,等の巨大さ,意匠の派手さは正に近江守護・佐々木道誉が代表する婆娑羅の時代を告げています。
 刀剣界に於ける,南北朝期の位置付はかなりユニークなもので,現存する天下の名刀の半分はこの時期の誕生であります。同じ名刀でもそれ以前の平安・鎌倉期の物は如何にも家の宝で神棚に注連縄を張り朝な夕なに拍手を打ち低頭すると云う神格を感じる物が多い。
 それに比べて,この太平(変)期の刀は重厚長大を旨としており,素人でも一見しただけで「如何にも切れる,物切れするな!」と,感じさせる雰囲気を持つた得物が多いのが特徴。もっとも「大太刀」にも二種類あり,儀仗と兵仗とに分けられ,儀仗とは儀式用であり,兵仗は戦闘用ですが奉納用も少し有ります,儀仗と奉納用には共に刃は付けてござんせん。
 「儀仗」伊勢神宮のご神宝である,玉縄太刀と須我利太刀は,刃長が三尺五寸(1m06),外宮の太刀は三尺九寸(1m18)もあったとの事でご猿。
 武烈天皇の歌に「飫哀陀致鳴多黎播棋」とある大太刀も伊勢神宮の様な飾り太刀であろう。

銘 備州長船法光生年三十三 文安二二(四)年八月日
 後世になると,神社の奉納用に大太刀が作られた。越後一の宮の弥彦神社に志駄定重が応永二十二年(1415)に奉納した「家盛」銘(国宝)の太刀は刃長七尺二寸七分(約2m20),九州西都市の都万神社に宝徳弐年(1450)奉納の「則次」ら五人の合作刀は八尺一寸二分。
大太刀 銘 末貞
 「兵仗」古墳からの出土刀に,稀に五尺(1m51)を超える物があり,古くから大太刀が用いられていた事が判ります。軍記物に於ける初見は「保元物語」に鎮西八郎為朝使用の三尺五寸(1m06)とあり,「源平盛衰記」になると畠山重忠が三尺九寸(1m18)の使用,綴太郎は四尺八寸(1m45)とある。「太平記」になると五尺三寸(1m60)が登場して来て,「其の頃,曽つてなかりし」大太刀とあったが,後に大高重成の五尺六寸(1m70)はおろか,福間三郎の七尺三寸(2m21)が登場する。こうなると太平記の誇張とばかりは考えにくい。
 これは,武田基綱・一宮勝梅の「応仁記」や「国府台合戦記」の里見義弘も七尺三寸とあり,さらに「官地論」では,富樫政親に藤島友重作の九尺三寸(2m82)の大太刀を持たせている。これ程で無くても,かなり長大な太刀が実際に使われていた事は,「七十一番歌合」に鍔が肩までくる大太刀を杖にした図が有り,「清水寺縁起」などにも鍔より先が身長ほどもある大太刀を従者に持たせている図が描かれておりますし,「一の谷合戦絵巻」には武将自身が斜めに背負って出陣する図も描かれていますので,時代考証はバッチリでござんす。
大太刀を担いだ従者(『清水寺縁起』より)
 室町時代には権力者は別図の如く「大太刀」を身近に飾ったりする事が流行りましたが,これは一種の見得であり,また一休和尚は乱世への警鐘を鳴らすのが目的で有りました。
一休和尚像 自賛 伝曾我墨渓筆
一幅 絹本著色 室町時代
奈良国立博物館
 一休和尚像には右脇に杖ではなく,朱塗
太刀拵を立てかけた作品が多くある。一休
が泉州堺で太刀を引き摺るように街を歩い
たことを『一休和尚年譜』は記載している。
これは外見だけを立派に飾った武士たちに
対し,いくら立派な太刀を佩いても中味は
竹光同様だと,痛烈な皮肉を画像に描いた
ものである。
豊臣秀吉画像(伝狩野山楽筆)
一幅 紙本著色 江戸時代
(原品 重要美術品)大阪 豊国神社
数多い秀吉画像の中では異色の作品で,精悍
な容貌は独特の迫力をもち,唐冠をかむって
曲ろくに座り,左脇に長大な太刀を立てた構
図は武将を強調するためであろう。画面上部
に,「豊国大明神 秀頼書」と,その左側に
秀吉自筆の辞世和歌草稿と思われる和紙を貼
りつけている。
◎ 大太刀 銘 備前国長船兼光 延文二二(四)年二月日
○太刀 銘 長谷部国信(号 唐柏)
 実際の戦闘で大太刀が華々しく登場するのは,元亀元年(1570)六月に北近江の姉川にて,朝倉・浅井の連合軍と信長・家康の連合軍が激突し,雌雄を決する大合戦が行われたときに朝倉方に「大太刀」を持った力士の一団が登場して大暴れをした記録が残っております。併しこの力士隊は力戦するも所詮は素人,玄人の武士には歯が立たず全滅したとの事です。
 この時の戦闘で後世まで語り継がれたのは,北国一の豪傑,朝倉方の真柄十郎左衛門とその子の十郎三郎の大太刀,親父の十郎左衛門の太刀は五尺三寸(1m60),子供の三郎の太刀は四尺七寸(1m42)という。文亀(1501)の頃,越前に大力の武士がいて備前長船に行って,祐定に五尺三寸,幅二寸三分(7cm),重ね五分五厘(1.7cm)の大太刀を頼んだ。祐定は子の祐清・祐包と協力して打ち上げた。試し斬りをしたところ,四つ胴を落とした。それが,後に真柄十郎左衛門の佩刀となった。この太刀は現在は名古屋の熱田神宮にある。
 尚,加賀の白山比 神社にも,六尺一寸五分の(1m86)の真柄の太刀が伝わっていて,互の目乱れで棒樋を掻き,「加州・行光」在銘で拵えを入れると総長は八尺四寸八分有る。子の十郎三郎の槍は三角穂で長さは一尺二寸(36.5cm)幅は一寸四分五厘(4.4cm)にて「真柄十郎三郎直基造之,永禄七年八月日」と有り,羽州の庄内藩士の家に伝来していた。
 この「姉川合戦図屏風」(林 義親・筆)
六曲半双・紙本着色。江戸時代。重要文化財。
画中に約三百人の将兵が精緻に描かれている
合戦屏風で,三曲の右端に大太刀を振り上げ
奮戦・激闘中の朝倉家臣団きっての豪傑,真
柄十郎左衛門が見られる。本作は我国唯一の
「姉川合戦図屏風」と言われる極めて資料的
価値の高いものである。福井県立博物館蔵。
兼元」(濃州・関の孫六)・通称・青木兼元 「重要美術品」。
刃長 二尺三寸三分(70.6cm)反り 五分(1.5cm)元幅 一寸(3cm)先幅 八分三厘(2.5cm)
「形状」鎬造,庵棟,元先共に見幅広く,大切先で反りは浅い,鎬幅広く,鎬筋は高い。
「鍛え」板目大いに流れ,鎬地と一体となり,鎬筋寄りに映り通る。
「刃文」頭の左程尖らぬ三本杉の乱れ刃,刃縁は激しくほつれ砂流し掛る。
「帽子」下と同調の乱れ刃,先は大丸風に掃掛ける。
「茎」 生ぶ,鑢目は鷹の羽,目釘穴二個

 豪傑,真柄十郎左衛門直隆を討取ったのが,青木一重でその時の刀が関の「孫六兼元」,以来,「兼元」銘がブランドとなり注文が殺到,後には六十数名が「兼元」を名乗っている。

 それでは「大太刀」とは何ぞや?,と云う事ですが,要するに「デカイ刀」という事です。普通,太刀とは二尺五?八寸(76?85cm),刀は二尺三寸(75cm)が定寸なのですが,時代による戦闘様式の違い(個人戦か集団戦),や自身の身の丈に因っても異なりますが,普通は定寸がポピラーでしょう。それ以上だと抜刀が難しくなります。巌流島で宮本武蔵と決闘をした佐々木小次郎の刀は三尺以上と言われており,長過ぎて背中に背負っていたとの事でご猿。
 又,平安・鎌倉・南北朝の時代の特質すべき特色としては,長巻・薙刀が大いに流行り,特に太刀を佩び薙刀を携え一本歯の高下駄を履き白頭巾のスタイルは僧兵のオリジナルとして定着を致しました。この当時の僧兵は完全な武力集団で特に京都,奈良の大寺院では自らの要求が入れられぬとなると,僧兵を以って強訴を繰り返し無理を通しておりました。
  備前長船長光 薙刀では我国唯一の国宝です。
◎大薙刀 無銘(伝 武蔵坊弁慶奉納) 愛媛 大山祇神社
長さ一〇二・二 反り五・六
 茎を含めた全長は二メートルを超える長大な薙刀。重ね厚く先反りやや強いが
先幅はさほど広くはなく,鎬筋が鋒まで通り菖蒲の葉状となる。板目肌がつみ映
り立つ地鉄に,刃文は小丁子乱れで小互の目が交る。腰に薙刀樋,平地に太めの
添樋を掻く。茎は生ぶで茎先に目釘孔を開ける。
 薙刀は,平安期から中世にかけて盛行した武器であるが,製作当時の姿をその
ままに伝える遺品は少ない。大山祇神社には多くの甲冑類と共に,こうした薙刀
もまとまって伝存し,昭和四十一年に七口が一括して重文の指定をうけた。これ
はその中の一口で,武蔵坊弁慶の奉納と伝えている。
今回はこれにてご免候。次回は刀剣史上では避けては通れ無い,「応仁の乱」より〜。

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