東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(35)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 10月25日,横浜市にある会員宅で行われた,“ろんどの会”の例会は,若い歴史学者,大学の先生による講演でした。「3・4世紀の日本列島」と題して,先生は二千年前の世界に20名の会員を誘って下さいました。
 階級の無い縄文の社会は,大陸からもたらされた鉄によって,大きく変貌します。鉄の農器具によって生産力が飛躍的に伸び,貧富の差が生じ,富めるものが支配します。また鉄は武器ともなり,部族間に抗争が起こり,西日本のクニは戦争により離合集散を繰り返し,初期国家へと成長して行きます。
 『夫レ楽浪海中ニ倭人有リ。分レテ百余国ヲ為ス。歳時ヲ以テ来リ献見スト云フ。』
 これは中国の歴史書,三国志のなかにある「魏志倭人伝」の邪馬台国に関する記述です。この後,朝鮮半島の付け根,楽浪から日本へ航海する方向と距離で行程が記されていますが,方向が正しければ,邪馬台国は大和地方にあり,距離が正しければ北九州となります。
 邪馬台国はどこにあったのか。女王卑弥呼は一体何者だったのか。邪馬台国ほど多くの論争の的になり,歴史へのロマンを駆り立てる国はない。
 30年程前,私は交通事故の後遺症で歩けなくなり,多くの病院や療法師を頼ってさまよっていましたが,結局,神楽坂で開業していた目の不自由な鍼灸師の治療で奇跡的に全快しました。その先生と親しくなり,同じ先生の患者であった角川春樹氏と銀座で飲む機会がありました。角川氏は当時,人間の証明という映画と小説が大ヒットしていました。
 コースターに「野生時代」と書いて,私が最近創刊した雑誌があるから是非読んで下さい,と云われました。翌日,早速購入しますと,特集記事は,角川氏が,若い仲間5,6人と,野生号という筏を作って中国大陸から海流に乗って漕ぎ出し,着いた処の近くに邪馬台国がある,という設定で,歴史のロマンをたずねる冒険記事でありました。結果は2,3日で時化に遭い,再び中国大陸に漂着して,その冒険は終っていました。その時私は,無謀なことをやる若者がいるものだと思いましたが,邪馬台国の所在地については,日本書記では卑弥呼は神官皇后とみなし,以来,鎌倉時代,江戸時代から現在まで,九州説,近畿説と,どちらも相譲らず論争のたねになっていたことを知り,改めて角川氏のロマンに脱帽したい気分になりました。
 先生の熱演は90分を超え,受講者たちを魅了しました。
 主に西日本の遺跡から,銅鐸,銅剣,銅矛等,青銅器の発掘によって,弥生時代のクニの勢力分布やその変遷が次第に明らかにされます。昨今は科学の発達によって,それまで不確定であった事項がより正確に時代を特定できるようになりました。縄文時代と弥生時代の岐れ目は,狩猟から農耕に移行した時で,紀元0年前後と云われておりました。ところが,ある遺跡から発掘された,土器からこぼれた米の煮汁の化石をDNA鑑定したら,紀元前5世紀となり,従前の説から500年も遡ることが分かったそうです。
 歴史も近代科学によって説が覆されることがあります。法隆寺の五重之塔は,聖徳太子の霊を慰める為に建てられた,というのが定説でありましたが,年輪の鑑定により,太子生存時の建立ということになりました。
 今後の歴史は,文献や発掘物から考古学者が推理し,それを科学者が分析,鑑定して確定することもあるのではないでしょうか。
 講演開始前に配布された貴重な資料のうち別紙図を見ますと,これは律令制度ができたときの日本列島の行政区割図ですが,私が以前購入した江戸時代末期の国名区割図とほとんど変っていないことが分かりました。
 先生は,学生時代,武蔵(今の東京都及び周辺)と相模(今の神奈川県)の国名の由来を解き明かし,心中秘かに快哉を叫んでいた処,200年以上も前に本居宣長が既に解明していたことを文献で発見したそうです。先生は落胆するどころか,「宣長もなかなかやりおるわい」と思ったそうです。
 武蔵(ムサシ)の下にモを付け,相模(サガミ)の前にムを付けると,武佐下,武佐上となります。京都の近くに武佐という土地があり,律令制定時,行政の中心であった為,近い方の国を相模,遠い方を武蔵と命名した,というのが先生及び本居宣長氏の学説です。
 京都から東へ下りますと,大津,草津で東海道と中山道に辿れますが,東海道は石部,水口,土山と東へ向いますが,中山道は守山,武佐,愛知川と,琵琶湖の東側に沿って北上します。武佐宿には伊勢神宮にまつられている天照大御神のお母さんをまつっている多賀神社があります。

 「お伊勢に行くならお多賀に詣ろう,お多賀お伊勢の母ぢやもの」という俗謡があり,多賀神社は今でも多くの善男善女の信仰を集めています。私も10年以上前,中山道中で通過しただけの武佐宿が由緒ある名所旧蹟であることを再認識しました。
 今後も,将来有望な芸術家や学者を発掘しエールを送る,“ろんどの会”の活動が益々楽しみであります。





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