東京木材問屋協同組合


文苑 随想

三井家創業時の家訓を見る

榎戸 勇


 世の中には時代の波に乗って巨万(巨億)の富を得た人々も居る。
 足利時代までは権力に結びついて特権を得た地頭達((注)参照)が富を貯え,後の戦国時代になって大名に登りつめた人々もいる。
 しかし,徳川時代になり初代家康の没後2代秀忠,3代家光,4代家綱をへて5代綱吉の時代になると,平和が長く続いたので諸国間の物流が増加し,政治や権力とは無関係に自らの才覚と行動力で富を得て大商人になる人々が生まれた。

 三井,住友,鴻池等はその時代に頭をもたげ,現在に至るまで続いている数少ない企業である。(他につくり酒屋もその時代から続いている処がある。)
 このうち三井家は3代目の三井高房(八郎衛門)が初代高利の教えを父の2代目高平から常に聞かされており,高房はそれを筆記して「町人考見録」という書物にした。この書物は享保11年(1726)から享保18年に書かれたとのことであるが,実話の多くは高平が活躍した元禄(1688〜1704),宝永(1704〜1712)のものである。
 この書によれば大変威勢のよかった両替屋善六が潰れたのは美作津山の城主森美作守に大金を貸したのが返して貰えなかったためで,善六は江戸へ行き公儀へ訴えたが取りあげて貰えず,江戸で客死したという。盛んな頃は20万〜30万両(現在価では200億,300億位か)の分限者と噂され,屋敷も1町(約100米)四方もあったという。高平は大名貸は博奕を打つようなものだと書いて固く戒めている。
 呉服商の末路も大名貸の両替商と同じである。呉服商の大手は呉服所といわれた。呉服所は通常の呉服商と違い将軍家御用達の呉服商で多くの大名達も呉服所から購入した。
 後藤縫之助が有名である。後藤呉服所のそばの橋は呉服橋といわれ現在も地名として残っている。後藤家の住居は川をはさんで店の斜め向いにあり,店から住居へ渡る橋は一石橋と呼ばれた。(5斗と5斗)つまり後藤の店と住居を結ぶ橋なので名づけられたらしい。後藤は将軍家や諸大名から扶持米や合力米を貰い,町人の心得を忘れて外出には袴をつけ,子供達も何々家の御家来というような育て方をした。しかし元禄が終り次の宝永時代になると幕府も諸大名も財政が苦しくなり,どこのお屋敷も倹約専一になって,呉服物も諸方の店々に問い合わせて安い店から買い,数が多い足軽や下働きの衣服は入札で購入することも多く,後藤家は呉服所の特権が失われて衰退し雇人も数少なく屋敷の庭は草ぼうぼうで見るかげもない有様になった。後藤家だけではなく元禄時代に29軒あった呉服所は享保時代には僅か8軒になってしまった。呉服所に限らず,自由競争がはげしくなるにつれ,特権的な昔ながらの営業をしていた商人は没落したのである。

 て,本題の三井家の話に入ろう。多くの店が浮き沈みするなかでも才覚と実行力があれば道があるものである。
 三井の初代三井高利は伊勢の松坂(今は松坂牛で有名)で質屋を営んでいた。また米貸し(米の収穫期まで米か金を貸すこと)や村の財政の苦しい時には村への貸金もした。そして延宝元年(1673)に呉服店,天和3年(1683)には両替店も始め,商才に長けた人でかなりの資産家になった。両替店は現在の銀行の業務,つまり資金貸付と為替業務,そして為替で入金した金を一時預かることもした。(しかし一般の預金業務は原則としてしなかったようである。)三井両替店は大名貸はしなかったが,例外として領主の和歌山徳川家にだけは貸付をした。しかし貸金の残高を3千〜4千両(3億〜4億円位か)に抑え,受取った利子は別に積立てておいて万一元金が返済されない場合に備えた。慎重な経営である。
 また主人から番頭,手代,小僧に至るまで,博奕,女色を禁じ,悪友とは交際せず良友を選ぶことなども定めた。

 その後,京都と江戸に呉服店を開き,京都は長男の高平,江戸は次男の高富にまかせ,松坂の店は両替店の営業だけにした。京都店は現金売りによる一般の小売りもしたが,江戸店から注文をされた呉服の品々を西陣等で良品を選んで現金で安く買い,江戸へ送る業務が多かった。江戸は人口が沢山あり需要が多かったのである。(当時の江戸の人口は100万近く,大阪は40万位である。)
 三井呉服店の江戸店は越後屋呉服店,のちの三越(三井の越後屋)である。商売は現金売,掛値なしで全て決められた価格で売り一文たりとも値引しない。しかし京都店がメーカーから現金で仕入れ直接送ってくるので,普通の呉服店より安く売ることができたらしい。井原西鶴が元禄元年に刊行した「日本永代蔵」という書物には毎日平均して150両(1500万円程か)の売上があったと書いている。しかしその約20年後の宝永4年(1707)の売上は12万3千余両という記録があり,約20年で売上が2倍以上になっている。元禄が終り経済が下向きになっている時にも売上が増えているのである。また呉服店の隣に両替店を併設した。江戸店の売上を京都店へ為替で送る他,一般為替も江戸と京,大阪間を扱ったのである。京都店は西国の大名が参勤交代で江戸へ下だる時,西筋は銀本位なので銀貨を京都店へ預け,京都店は江戸店へ為替でその金額を知らせ,江戸は金本位なので大判小判でその大名へ渡したと推測する学者も居る。江戸店は売上の金貨が有るので支払は十分でき,京都店は銀貨が入るので諸支払が十分可能である。為替の送付は書類だけなので盗人に襲われる心配がなく安全である。三井両替店は京都も江戸も大名貸は一切しなかったという。只々感服する営業である。私共の木材,建材の商売はほとんど掛売り,手形決済であるが,お得意さん一軒ごとの債権限度をきちんと定め,不良債権がでても財務に大きな影響がないようにしなければいけないのである。

 3代目の三井高房は父高平から聞いた祖父高利の教訓をもとに三井家の家訓を定めた。その家訓には,毎日の生活も営業も無駄を省き節約を旨とすること,店では主人も番頭も手代も小僧も縞柄の木綿の衣服に前掛けをつける。(但し,店主,番頭,手代,小僧で柄が違ったようである。)主人,番頭は外出時には衣服を変えるが,華美な服装になってはいけない。夜の外出,宴会,特に女性が侍る宴会への出席は不可等々詳しく定めている。
 現在に生きている私共は三井家創業時の家訓にそのまま従うことはできない。昔と違って休日が多いので,休みの日にはゆっくりと休日を楽しみ,映画,演劇,読書,ゴルフ等を楽しむ方がよい。あの家訓だと息がつまって生き甲斐がなくなり,働く意欲をなくしてしまう惧れがある。
 しかし,いくつかの点は見習うべきであろう。
(1)得意先への債権限度をしかり定め,多大になりすぎないようにすること。在庫が溜まり持て余している時は,ついまとめて買ってくれる人が現れると,売りたい一心でまとめて多額の金額を売ってしまうものである。心すべきことである。
(2)毎日の生活も営業も無駄を省き,シャキっとした姿勢でいること。しかし地域や業界とのお付き合いはケチにならず,応分プラス若干位を目処にすべきだと思う。
(3)お客には誠意をもって対し,良品を適価で買って貰うように心掛けること。
 その他色々教えられることが多いので,長々と述べたがご一読頂きたく筆をとった次第である。

(以上)
H.21・6・7記
(注)地頭。足利時代迄は土地は全て有力な社寺,(東寺,光福寺,延暦寺等沢山有った。)や幕府の高官,幕府をとりまく豪族等の所有であった。しかし彼等はその土地を管理すること,特に年貢米を集めることは不可能なので,その地の有力者に管理を依頼し年貢の取立てをさせた。依頼された有力者は地頭と呼ばれ農民達に年貢を割当てて土地所有者に送った。「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉があるが,その地区の地頭の権力は非常に大きかったのである。(土地所有者の年貢要求が過大な時,特に凶作の年は地頭が農民を集めて土地所有者に対する農民一揆もあったといわれている。)

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