東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.109

「鹿島神宮」(茨城県)参拝の記

青木行雄

※茨城県特産の総御影作り,一の鳥居,正面にデーンと建って
いた。高さ10メートル。鹿島近郊の方の奉納と言う。

 バスが正面「一の鳥居」の前に到着した。少し遅れての降車に鹿嶋ふるさとガイドの伊藤とよこさんは首を長くして待っていてくれた。
 鹿島灘を背にするこの鹿島神宮は平坦で広いが,本殿・奥宮共に登り坂がなく,他神社と異にして広い海岸へと続く。神社は天から神様がお降りになる事から,山か,平地より高い所に鎮座するのが普通多いように思われていた。
 先ず,この伊藤ガイドさんにより,この神宮の案内から記して見よう。
 東京ドーム25個分と広いこの神宮の森の鎮座場所は,茨城県鹿嶋市宮中,(常陸国鹿島郡)である。あのサッカー鹿島アントラーズの本拠地なのだ。そして御祭神は「武甕槌大神」と言う大神である。
 案内時間は約1時間で,まず入口の1の鳥居の案内板前に全員集合であった。
 ユーモアも交えて案内が始まった。
 『さて皆様よくぞこの鹿島神宮に御参拝下さいましてありがとうございます。
 この鹿島神宮の御祭神は,「古事記」「日本書紀」によりますと,武甕槌大神は,宇宙自然の創世に成りませる陰陽の神,イザナギ,イザナミの両神より生まれた火の神,カグシチより誕生された,とされています。
 即ち原初の自然創世の頃に成りませる神であります』と言われても分からないが,全員が熱心に聞いていた。

 
※この楼門,1634年寛永11年,水戸藩初代藩主徳川頼房公が奉納し
たと言うが,総朱漆塗りの2階建ての楼門である。この楼門の秀麗
な造りは,阿蘇,筥崎と共に日本三大楼門に数えられると言う。
見ての通り素晴らしい。最近,成田山に総けやき作りの楼門が完成
し,18億5000万円かけたと言うがこちらも素晴らしい建物であっ
た。

 遥かな神代の昔,高天原の八百万神達は,我が国を「天孫・(天照大御神の御孫)の治める,豊葦原瑞穂国」とすることを決められ,これに先立ち,まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向け,平定することが先決であると衆議一決したのであります。
 そして,このガイドさんの話によると,『大まかに言えば,日本の西は大国主の神に東はこの鹿島神宮の武甕槌大神と香取神宮の神,経津主大神に北も含めて平定するよう命じた。よって,神社の向きは北を睨んでいるから北向と言われ本殿も奥の院も北向であった。
 とりわけ東国における神功は極めて大きく,関東の開拓の礎は,この大神によるものと言われる。
 その後,神武天皇はこの東征半ばにおいて思わぬ窮地に陥られた時,鹿島神宮大神の「霊剣」の神威により救われた。
 この神恩に感謝された天皇は御自らの御即位の年,大神を鹿島の地に勅祭されたと言う。
 皇紀元年,今年は皇紀2669年である。即ち,2669年前と言う遠い昔の話であった。
 この大神の「霊剣」こそが,鹿島神宮の数ある中の随一の宝物であり,茨城県唯一の国宝である。別名平国剣とも言い,一振すればたちまち国中が平穏になると言う霊剣で,この御剣の御力により神武天皇は日本の建国を果したのであります。』とのことであった。

 重要文化財の本殿は,本殿,石の間,拝殿と3棟からなり,1618年(元和4年)に江戸幕府の二代将軍徳川秀忠により造営された。拝殿は白木作りの簡素な意匠であり,他宮と比べ,中のスペースが小さく,30〜40人位の広間である。本殿は朱塗りに極彩色の鮮やかな意匠で,日光の東照宮はこの大形の本殿のようで,そっくりの作りである。
 写真の本殿の背後に大木が見えるが,この杉の木が「御神木」で樹齢1,200年と推定され,目通り周囲11メートル,高さ43メートルあると言う。

 重要文化財の奥宮は1605年(慶長10年)に将軍徳川家康公が本殿として奉納されたものを1619年(元和5年)の造替に伴い場所を移し奥宮となった。見ての通り総白木作りで,簡素な意匠である。落ち着きがあって,地味であり,神の居所として相応しい神所と言えそうだ。

※飼育されている「鹿園」30数頭居ると言う。奈良は広大な庭園
に,放し飼いだが,ここは動物園のような小屋の中である。時代・
環境・場所で人もそうだが鹿の運命も大きい。

 本殿より先に奥参道がある,かなり広い参道は巾も広く砂利道であった。そして広くて長い理由は5月1日この参道で流鏑馬神事が行こなわれる。関東の3代流鏑馬と言われ,日光・鎌倉と共に有名らしい。参道の両側には流石に歴史のある神社らしく,大きな杉の木が林立し,本殿のうらには「神木」と言われる1300年以上と言う杉の木もあった。

 昔鹿島神宮の森には多くの鹿が棲息していたと言う。その歴史を伝える「ニホンジカ」が飼育される「鹿園」が奥参道の左側にあって,30数頭位飼われていた。
 この鹿は神の使いとされ,鹿の神である,「天迦久神」が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ鹿が伝えに来たことに由来し,鹿島神宮では鹿が使いとされていると言う。
 767年(神護景雲元年)に藤原氏は奈良の春日大社の創建に際して,この鹿島より,白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年掛かりで奈良まで行ったと伝えられていると聞いてびっくりである。
 鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か奈良から新たに導入されており,現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると言う。
 と言うわけで,奈良の春日大社は,藤原家の総本社であるが,元を正せば,鹿島社宮からの流れをくむ春日大社と言うことになる。
 長い歴史の中で,時々の環境も影響し盛弱があって貧富の差も出て来るのであろう。
 あの広大な20万坪の鹿島の森にもいろいろな歴史がある,その昔は伊勢の神宮のように20年ごとに本殿の建替え造営が行なわれていたと言うが,現在の社殿は1619年(元和5年)二代将軍徳川秀忠公の奉納以来建替が止っているようだ。
 また,東北の大まつり,秋田のかんとう,青森のねぶた,仙台のタナバタ祭り等々は,その昔の起こりは,鹿島神宮の神事から伝わったと言う伊藤ガイドさんの話であった。時代の流れと盛弱を感じる出来事で聞かなければ分らない話であります。

 こうして,鹿島神宮について,見たり,聞いたりして見ると長い年月に時代によって変化して行った様が良く伝わって来る。
 平安時代に「延喜武神名帳」によると「神宮」と称号で呼ばれていたのは,「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」の3社だけだったと記されていたと鹿島神宮史に書かれており,鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であったとも記されていた。
 やはり,昔から神社・仏閣の盛弱も,地のりもあるが,なんでも時代時代の主頭の運と手腕もあるのではと,思った次第である。

 最後に視察参拝企画を頂いた問屋組合,東京木材青年クラブの皆様と詳しく説明案内を頂いた,神宮ガイドの伊藤とよこさんに感謝の意を表します。

平成21.2.1記

 

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