東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.111

鎌倉「長谷寺」と葉山の料亭

青木行雄
「はせてらへ まいりて沖をなかむれは 由井のみきはに 立はしら浪」 御詠歌として長谷寺の冒頭に詠まれている歌だが,確かにこの歌の通り観音堂の広場から遠く相模湾までをも見渡す事の出来る眺望は,鎌倉随一と言われ素晴らしい風景だ。そして,観音山の裾野から中腹にかけて広がる境内は,四季を通じて花木が鮮やかな彩りを添え,これも素晴らしい景観だった。  
※鎌倉長谷寺の玄関門,真赤な提灯に「長谷観音」と
書かれている。
※境内は四季を通じて花木が鮮やかな彩りを添えると
言われる庭園,桜が見事であった。
※観音堂 十一面観世音菩薩像の納められている本堂,
楠木の巨大木で製作されたと言われる9.18mの菩薩像は圧巻。
※鎌倉でも常楽寺,建長寺に次ぎ3番目に古い梵鐘と言われる,
観音堂の近くにあった。
※庭園の一角にあって観光客を和ませてくれる「和み地蔵」
なんとも愛らしい嬉しくなる顔である。ここ長谷寺の寺心が
伝わって来る。

 寺の境内と言うよりは,手入れの行き届いたコンパクトな公園と言えそうでもある。
 この鎌倉の長谷寺は,正式には海光山慈照院長谷寺と号すると言う。
 大昔から「長谷観音」の名で親しまれる当山は,奈良時代,736年(天平8年)開創と伝わる鎌倉でも有数の古刹と言う。
 昭和61年に建て直して出来た観音堂にデーンと祀られているこの本尊の十一面観世音菩薩像について少々詳しく記して見ると……
 721年(養老5年),今年から1288年前,大和(奈良県)長谷寺に開山である徳道上人の本願に基づき,稽文會,
稽首勲と名乗る2人の仏師(不空羂索観音と地蔵菩薩の応化身)により楠の巨大な霊木から2体の観音像が三日三晩にして造顕されたといい,その内の一体が大和の長谷寺の本尊となり,残る一体は有縁の地における衆生済度の誓願が込められ,開眼供養を修した行基菩薩によって,海中へ奉じられた。
 その後,15年後の736年(天平8年)に至り,尊像は相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れ,その旨を受けた大和長谷寺の開基藤原房前(藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉へ遷座され,当山開創の礎となったと記されている。
 錫杖を右手に執り,岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる十一面観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれると言う。この十一面観世音菩薩は,像高三丈三寸(9.18m)にも及び本邦最大級の木彫仏で,東国を代表する観音と言うが,近くに行って見ると流石に圧倒され,凄い観世音菩薩だなあーと感動する。この長谷寺は,坂東33ヶ所観音霊場の第4番札所に定められ,その法灯は今の世に約1300年絶えることなく伝えられていると聞かされた。

 

 この長谷寺の境内には見所が多く,阿弥陀堂,地蔵堂,大黒堂,稲荷社,経蔵,鐘楼,宝物館,地下と言うか洞窟があって,弁天堂・弁天窟がある。薄暗い照明の中に弁財天がいて,16体の童子が参拝者の幸を叶えてくれている。
 この弁財天と言う「女神」は方々で出合いはあるが,どんな神なのか分かり難い,そこでちょっと勉強して見た。
 弁財天はもともとインドの河を神格化したものと言い,初めは豊饒などを司る神だったと言う。後に仏教に取り入れられ,弁才(弁舌),財福,智慧などの福徳を有する天部の尊格(ちょっと難しいが)として位置づけられる様になったと言う。
 日本に伝来してから鎌倉,室町時代以降,弁財天と書かれるようになり,尊容も八臂(8本の手)から2本の手で琵琶をもつ若くて美しい女神の姿になったと言われ,江戸時代には七福神のひとつに加えられ,最も人気のある女神として信仰を集めたらしい。
 弁財天は,その経典となる「金光明最勝王経大弁才天女品」の中で次のような福徳やご利益が説かれていると記されている。

※弁財天
琵琶を持つ若くして美しい
女神の姿

 難しい漢文が書き続かれているが要約されていたのでその方を記して見た。
 聞是経典 皆得不可思議 捷利弁才……
「この教えを聞く者は,皆不思議な程の弁舌の才能と限りない智慧を得ることができる。より多くの人の議論や,いろいろな技術を理解し,この世が終わった時最高の悟りを得ることができる。在世中は寿命を延ばし,生活に必要な品に不自由することがない」
 若有病苦諸衆 種々方薬治不差……

「もし人が最上の智を得ようと願うならば,一心にこの経の教えを護持すればよい。福徳や智慧の功徳が増える。決して疑ってはならない,もし財を成さんと願うものは多くの財産を得ることができる。名誉や地位を望むものは名声を得,悟りの智慧を得ることができる,このことを決して疑ってはならない。
 以上のような福徳とご利益が得られる「弁財天」は凄い神様であると思う。
 そしてその洞窟の中に並んで祭られている長谷寺弁天窟十六童子は人間が望む全ての希望が満たしてくれる素晴らしい童子なのである。

※「日影茶屋」の玄関,昭和初期の木造の建物。
趣があって感じが良い。
※茶屋の中庭。離れの部屋も何棟かあって,湘南の
料亭らしい雰囲気が漂っていた。
※中央に見える灯台が,「裕次郎灯台」で,ここ葉山が
「狂った果実」の映画の舞台となった。遠望に江ノ島が
見える。素晴らしい風景,感動の数々。

 帰りに葉山の「日影茶屋」に素晴らしい所だと聞いたので知人の案内で立ち寄って見た。今は料亭として大変繁盛しているが,昭和に始め頃までは,料理旅館として宿泊も出来た料亭として時代を風靡した旅館だったと言う。
 今は時代も変り比較的安く,大衆的になった様だが,高級感も漂い,中々品格のある料理店だった。
 鎌倉時代・室町時代の歴史の中に度々登場する「旗立山」とか「軍見山」とも呼ばれ,又,蛭ヶ小島に配流中の源頼朝がこの地に微行した折,路が狭く巌に馬の鐙が摺れたことから,命名したといわれる鐙摺り山,この様な歴史の深い地の山裾にあるこの「日影茶屋」は約300年前,江戸中期に創業したと言うのである。
 この茶屋の歴史に因れば,川上眉山の「ふところ日記」に「一日影の茶屋といえる名の優しさに其処に宿からんことを思ひ…‥」という一説があると言い。久米正雄の「破船」,瀬戸内晴美の「諧調は偽りなり」,松岡譲の「憂鬱の愛人」などの舞台にもなり,また夏目漱石や大杉栄という人々とも因縁が深いと,この「日影茶屋」の主人は言っている。
 丁度,私達が行った時は予約はしてあったが大変忙しく随分待たされた。法事や誕生祝などある様で繁盛していた。
 昔の電話や建物も古いが手入れが行き届き大変雰囲気の良い店でもある。客層も品がある様に思った。後で聞いて見たら,湘南では有名な料亭らしい。
 湘南には見所や魅力のある所が沢山ある。『あれが裕次郎の灯台です』と地元に住む知人から言われ感心する。裕次郎の三回忌に点灯され,葉山町に寄贈された。記念碑もあり,その記念碑には映画「狂った果実」の一節が刻まれている。
 湘南には,葉山御用邸や作家,芸能人の別荘などもあり,人々の憧れの地である思いは今も失われていない様である。
 古い歴史を持つ鎌倉の寺々,何度行っても飽きる事のない湘南の原風景,そして美味しい料理,お世話になった方々に感謝して,健康で感動が出来る幸せに乾盃。

平成21年4月29日記

 

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