東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.112

金龍山「浅草寺」 伝法院と絵馬

青木行雄
※浅草寺本堂,いつ行っても大勢の観光客で賑わっている。
 浅草での待ち合わせと言えば,やっぱり一番多いのは雷門であろう。正式には「風雷神門」と言う。ここは外国人の観光客や善男善女が集まりいつ行っても賑やかだ。ここで待ち合わせ,門をくぐって,何でも揃う浅草観光土産店を見ながら仲見世を通る。門の前の右手に警備派出所があって,忙しく観光客を捌いている。その前に縦,横,高さ約1メートル余りの巨大な石が3つ鎮座している。1649年(慶安2年)徳川家光が寄進した“先代”仁王門の礎石だと言う。18ヶあった石の内,1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に門が焼け落ちた折の破損で,再建工事が始まった1987年(昭和62年)に掘り出した,と説明書きあった。仲見世両店の売店等を見ながら,珍しいこんな物も売っているのかと思いながらぶらぶら歩くと,本堂まで20分以上も掛かりそうな距離であり,楽しい通りでもある。
 そして古くから浅草は浅草寺を中心として栄えて来た門前町,一年を通して様々な行事で賑わう浅草,大衆娯楽発信の地でもあった。江戸時代の歌舞伎三座や大正から昭和にかけての興業の街浅草六区,川並から芸能人の三亀松も六区から。色々な人々を楽しませ,自分達も又一緒に楽しみながら過ごした。そんな人情の深いまちとして多くのお客が集った浅草,そんな浅草には,楽しみの中に大きな魅力と地元の人もなかなか見る事の出来ない場所や秘蔵品も沢山ある。そんな場所に有名人の紹介で願いが叶い,大感動したある日の一日を紹介したい。
 まず,浅草寺の縁起について……

 628年(推古天皇36年)今から1381年前の3月18日の早朝,檜前浜成・竹成の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁撈中,はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得したとガイド誌に記されているが,本尊感得の図を見ると引綱に引っかかったご尊像がはっきり見える。
 郷司士師中知はこれを拝し,聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し,その後出家し,自宅を改めて寺となし,礼拝供養に生涯を捧げたとなっている。
 それから17年後の645年(大化元年),勝海上人がこの浅草の地においでになり,留錫され観音堂を建立し,夢のお告げによりご本尊をご秘仏と定められ,以来今日までこの戒は厳守されている。と言う事は今日まで1364年間誰も見た人は居ない事になる。
 広漠とした武蔵野の一画,東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し,平安初期には,慈覚大師円仁(794〜864,浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され,ご秘仏を模して,お前立のご本尊を謹刻されたと書かれている。
 鎌倉時代に将軍の帰依を厚くした浅草寺は,次第に外護者として歴史上有名な武将・文人の信仰を集め,道場の荘厳を増し,更に下って江戸時代の初め,徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは,堂塔の威容がさらに整い,いわゆる江戸文化の中心として,その存在は時代に大きく反映していったと言う。かくして浅草寺は,浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ,日夜参詣者の絶えることなく民衆信仰の中心地となっている。との縁起の文面である。
 この浅草観音を用約すると聖観音宗の総本山であり,正式の山・寺号は,金龍山,浅草寺と言う。

 そして文面にも出て来るが,本物の本尊は全く秘仏であり,「聖観世音菩薩」と言うが,お前立本尊(代役本尊)は,慈覚大師製作によるものである。そして開基は,勝海上人,中興開山は,慈覚大師円仁である。と言うことになる。
 浅草寺総地 162,162m2(49,140坪)
 内,伝法院 25,568m2(7,748坪)
 私は「東京大空襲」は知らないが,九州の片田舎で終戦を迎えた。今から64年前の昭和20年3月10日東京の大空襲には遭っていないが,資料によると,アメリカが日本の空襲用に開発した焼夷弾は「M69油脂焼夷弾」と呼ばれ,本体はゼリー状のガソリンだったと言う。焼夷弾の1本の形状は,野球のバット半分程度の鋼鉄製の筒で,これを38発,鉄バンドで束ねたものを浅草の上空からも投下し,バンドが空中で外れ,広い範囲にバラバラと落下,浅草寺の本堂や五重塔も燃やし,辺りを火の海にしたのである。もう少々横道にそれると,3月9日マリアナ諸島を飛び立った325機のB29は少量に抑えた燃料と満載の焼夷弾を抱えて東京を目指したのである。私も九州の田舎で山の合間に上空を連帯を組んで飛行するB29を物陰から200機位数えた覚えがある。3月9日だったかは覚えていない。
 この時のアメリカの作戦計画は,まず正方形と2本の対角線のライン上に焼夷弾を落として火の壁を作り,住民の退路を断った上で,1平方メートル当り3発,総重量2700トンの焼夷弾を,雨あられの無尽に東京の市民の頭上に降り注いだという事だ。
 そんな大変な戦下の中,浅草寺にはとても素晴らしい頭の良いお坊様がいた。
 戦争が激しくなった時,焼失を考え,本尊,お前立本尊,仏像等の重要物は,地下に埋めてあったと言う。
 そして本堂・五重塔等は焼夷弾をまともに受けて殆ど焼失したが,隣接する「伝法院」はたまたま焼夷弾を受けず,火の風向きが反対側に流れ,火に強い青木が繁っていたとも言われ焼失を免れたのである。

※「伝法院」と額が良く見えるが。1778年(安永7年)
の模写で,231年前のものである。この建築は1777年
(安永6年)232年前の建物。

 1933年(昭和8年)の観音堂大修理の折りに,取り外したまま「伝法院」に納めていた「大絵馬」「小絵馬」「給画」「工芸品」「書額」「古銭額」等200点余りが,幸いして,今日伝えられており,普段見られない貴重な芸術品をこの目で見たのである。
 前書きが長くなったがこの度の御案内はこの「伝法院」と運良く保存され,この目で確かめた絵馬等の芸術・美術品の事について記した。
 戦災に遭わなかったこの「伝法院」は,浅草寺の本坊で,元は観音院,智楽院などと言われた様である。1688〜1704年,元禄以後に伝法院と名付されたと言う。
 玄関,客殿,大小の書院と浅草寺の貫首大僧正の居間があると言う。また回向道場として追善法要,山家会・天台会などの論議が行われ,当山の修行道場ともなっている。
 この建物は1777年(安永6年)と言うから,232年立っている木造の建物で大変興味があった。
 この浅草寺の総面積は162.162m2(49,140坪)あると言うがその中の「伝法院」の面積は,7,748坪あって,庭園の広さは3,702坪あると言うから広くて素晴らしい庭園だ。小堀遠州作と伝えられ,1624年(寛永年間)〜43年,廻遊式庭園である。
 元禄年間,輪王寺宮家の直轄となり明治まで秘園とされていたと言う。今も一般公開はされてなく特別に今回拝見したが,ここから見る池と庭の遠景に見る五重塔の素晴らしさは,右記の写真の通りである。
※伝法院の庭園から五重塔を遠望する。実に素晴らしい
景観である。
※古墳時代の「石棺」,140年間もこのまま置いてある
ようだが,酸性雨でかなり痛んでいる。
 池のほとりに「天祐庵」があって,1781年(天明年間)〜1789年,の作で,名古屋の茶人牧野作兵衛が,京都表千家の“不審庵”を模して作ったと言われる。1958年(昭和33年)10月,浅草寺婦人会へ寄進したと聞いたが私達の行った時も,和服の御婦人達が茶会で出入りしていた。羨ましい程の場所である。
  『皆さんは,石棺を見た事がありますか?』この庭園のすぐ近くの一角にこの石棺が置いてあり見ることが出来る。長さ2.5m・幅1.2m・高さ0.75m,古墳時代のもので,1869年(明治2年),本堂後方の熊谷稲荷にあった塚より出土したものと書かれていた。大変貴重な史蹟だと思うが,140年も雨ざらしである。
 以上伝法院について簡単に記したが,地元の人も入園出来ない程貴重な体験をさせてもらった。
 社寺に奉納する絵入りの額を「絵馬」というが,各地の神社や寺で見た事も多いと思う,浅草寺の絵馬について,記す前に絵馬について勉強してみた。
 この絵馬の起りは,上代において,馬は神の乗り物として神聖視されており,従って神霊を和らげ,或いは祈願,奉謝の為に馬を捧げる風習があった事に基づいているというのである。
 然し,生馬を献上するには飼馬料も添えねばならず,やがて木馬・土馬・紙馬などによる馬形がこれに代わり,更に絵に描いた板絵馬になっていったものである。
 そして,のちには絵馬の図柄も馬以外の物も現われ,歴史・伝説上の有名な人物,風俗,或いは花鳥山水,等に変化して行ったと言う。
※南無観世音,本人が書いた書を彫刻された額で
197cm×97cm山岡鉄舟奉納額。
こんな額が3枚並べてあった。彫刻板はひび割れ
がなく楠の木ではないかと思った。
  だが,民衆の切実な願望,秘めた祈りを具体的に示した素朴な絵馬は,絵馬の本流として広く行き渡り,今日に至ったと記されてる。
 絵馬の型も大絵馬,小絵馬と分かれ,専門の絵師が,美術作品としてその技を競った。
 絵馬はその製作奉納の経過に,信仰の裏付けが必ずある事が,一般の絵画と基本的に異なる所であり,その意味で信仰習俗の一面を探る上で貴重な存在と言えると絵馬についての説明である。
 では浅草寺の絵馬について……
 戦災を免れ,絵馬の数々が今五重塔々院の地下に帰って来たのは,この塔々院が完成再建してからである。
 幾度かの災厄を免れ,徳川秀忠公,同家光公奉納の蒔絵の絵馬をはじめ,江戸・明治・大正時代に亘る大小合わせて約200余点が,質と量とを備えて浅草寺に保存されているのは,奉納者の心頭を今に伝え得ている事にあるのかも知れないと思う。
 何部屋かに別れて掛けられている作品は技法が極めて多彩であり,絵(日本画・油絵)彫刻(仏像・竜体)工芸(蒔絵・ぞうがん・舞台作り・牙彫り・人形)とにかく多種で驚くばかりだが,静止してじ〜と見ていると製作者の創意,工夫がびんびん伝わって来る。どの奉納額を見ても圧倒される作品ばかりで説明のしようがないが,鉄舟・海舟・泥舟の幕末三舟の額が三額一面に並べられ飾られていたのには大感動で鉄舟の大ファンとして表現出来ない程大感激した。
 とにかく東京に何十年か住んで浅草に何十回か行ったが,ほんの表面だけで本当の浅草を見る事は無かった様だ。
 今回は浅草・浅草寺のちょっとだけ深みに触ったような気がする。雷門の事にちょっと触れて閉めたいと思う。この雷門は942年(天慶5年)平 公雅によって創建され,その初めは駒形付近にあったと言う。
 鎌倉時代以降現在地に移建された際,風神・雷神が初めて奉安されたと言われる。
 当初は伽藍守護のために,風水害又は火災からの除難を目的としてこの2神が祀られた。そして風雨順時の天下泰平,五穀豊穣の祈願も込められている様である。
 現在の門は,1865年(慶応元年)12月12日,田原町大火で炎上した門に替わり,1960年(昭和35年)95年振りに松下幸之助氏の寄贈により,浅草寺の「総門」として,浅草の顔として,全国的に有名になり,その偉容を誇っている。

浅草寺案内図
 やっぱり浅草は奥が深い歴史の古い町であり。そして大変魅力のある町であった。

平成21年5月17日記

 

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