東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.113

「別府温泉物語・現代芸術2009」
そして「アルゲリッチ」

青木行雄
※別府に行ったら,「竹瓦温泉」に必ず入って下さい。
別府を代表する温泉です。ここに入らなければ別府の温泉は
語れない。赤いポストが目立って,いいね。  入浴料100円,
ゲタ箱10円。
 『“いい湯かげん”今朝は45〜46度あるかな〜』と地元の人が言いながら5〜6人いた地元の人達は平気で湯につかる。
 朝6時半から開場する別府「竹瓦温泉」の共同浴場朝の情景である。
 別府温泉のシンボルとして多くの人々に愛され利用されている木造2階建のかなり大きな共同浴場,昭和初期に建築され80年近くになる建物。2階は町の公民館として利用されている。
 朝6時に起床し,6時半から開場する,ホテルから4〜5分の「竹瓦温泉」に朝メシ前の朝風呂である,「小原庄助」さんを真似た訳ではないが日本一の温泉での朝風呂は最高の贅沢と言えそうだ。

 別府は源泉数,2,848孔,湧出量1日13万Kg(日本国民全員が1日に1 ずつ湯を利用できる計算)全国1位,泉質数10種。(温泉の泉質は全部で11種あると言われるそうだがそのうちの10種)ともに国内随一の温泉郷なのだ。

※※ 混浴ではないが,砂湯まであって,くつろぎの場所が
木造で広くて何とも落着く雰囲気である。共同浴場での
エチケットは浴場内に書いてあるが,見落すと地元の人に
注意される。湯のふちにはおしりを乗せない。桶を使ったら
必ず元へ戻す,等々厳しいチェックがある。
  温泉はこの街の暮らしの中心であり,地元の人にとっては天からの恵まれた最高の贈りものである。別府にはそこから生まれた独自の文化が深く根付いている。また,古くから国際的な温泉保養地であった別府には国内外からさまざまな観光客や著名人が訪れている。こうして流れ込む多様な文化を受け入れてきた街の歴史が,戦災を受けなかった町に今も至る所に残っていた。その残っている文化や建物を利用して発案したのが,この「混浴温泉世界」別府現代芸術フェスティバル2009であると思う。
 その見たままの一部を紹介しよう。
 別府駅から歩いて15分程の所に「聴潮閣」はあった。和風木造建築に興味があって,木に詳しい人なら誰でもうなりそうな建物である。この「聴潮閣」は,1929年(昭和4年)大分県政財界の第一人者であった高橋欽哉と言う人が,住居兼迎賓館として当時建てた近代和風と呼ばれる建物であった。
 当時は別府市の浜脇海岸沿いに位置していた為,「潮の音を聴く」という意味で「聴潮閣」と名付けたと聞く,何と情緒豊かな人なんだろうと思う。

※「聴潮閣」の表玄門である。

 別府では大正から昭和にかけて,炭坑王や大富豪の別荘など,数多くの名建築が建てられたらしい。然し戦災を免れたにも拘らず,戦後から高度成長期を経て,今日に至るまで,その殆どが次々と失われたのである。その中で壊されずに残った聴潮閣は1989年(平成元年),保存と公開を目的にその一部を浜脇海岸から現在の地,山の手に解体移築され,2001年(平成13年),国の登録有形文化財として今に残されている。
 当時の建築に対する棟梁の心意気や,今は居ない建て主のこだわりが,身に染みる思いで伝わって来る。こんな聴潮閣がこの度の芸術祭一部の会場であった。広い玄門を入ると迎賓館として使用されたであろう。応接間があって,昭和初期の贅沢品が揃っていた。10mもある1本もののナゲシや梁,ステンドガラスや家具等の説明は今回はやめて,芸術家「サルキス」作品の話をしよう。
 2階の広間に上がるとかなり広い広間の奥に床の間があって,液晶モニターに映像が動いている。見ていると血にもられた水面に赤色の絵の具がゆっくり広がり始めた,隣には葛飾北斎が白拍子(男装の遊女)の舞いを描いた浮世絵が映っている。数十秒後,その絵の具の広がりが描きだす模様が北斎の絵を模した形となった。鏡の表面に無数に描く指紋(らしい)など,この説明では解り難いと思うが,鑑賞者から巧みに引き出す技と言うか,これが芸術なのかと納得する。 
※ひなびた「居酒屋」の入口戸にはアートがいっぱいである。
※「別府鉄輪温泉」にある木造の「冨士屋ギャラリー」
築100年の木造建築で旅館だった。廻り廊下があって,
懐かしい建物。
 この和室の広間に正座して,館長から「サルキス」と言う芸術家の説明を受ける。「サルキス」1938年イスタンブール(トルコ)生まれ,パリ(フランス)在住。
 世界各国で100を超える個展を開催する巨人,その道のスゴイ人らしい。
 この「サルキス」の作品が他にも見られた。
 次に芸術祭スタッフが案内してくれた先は戦災を受けていない,路地裏のスナックの様な長屋の廃店舗であった。ドアを開けると昔なつかしいカウンター席,奥の棚には,古びた皿や茶わんが重ねてあり,客の来るのを待っている様であった。1〜2階の店舗そのものが作品と言う。昔別府に多くあった「茶漬け屋」を想定して,廃屋の飲食店を再生したと言う。戦前からあった,昔,いたる所で見かけた,その辺の「居酒屋」「小料理屋」が,今アートとして取り上げられる時代である。それ程古いものを見掛けなくなったと言える。
 別府に行ったら,「観光名所,地獄めぐり」等バスで行かれた方も多いと思う。なかなか他所では見られない光景である。
 その中の「鉄輪地区」に今回芸術祭参加の「冨士屋ギャラリー」,「一也百」はあった。この建物も木造で築百年の素晴らしい建物で,数十年前に旅館を廃業した建物を5年前にギャラリーとして再生した。木を生かした広いロビーから木の階段を登り和室に案内された。和室でこれ以上の建築はないと思われる程の贅沢な木材を作って仕上げられていた。この天然しぼりの大きな床柱,うなる程のしぼり丸太で値段の付けようがない程である。
 この和室をイラン出身の美術家,ホセイン・ゴルバと言う人は,畳を全部八枚の原色の布を張りつくし,敷いてあった。日本人の私達は普段,意識する事のない畳の方形を,この様に布の色で浮き彫りにする,八枚の長方形の布の違った色彩が光によって放つきらめきには圧巻を感じ,暫し釘付となる。
※2階の私室の一部屋をホセイン・ゴルバはこんな
「アート」に仕上げた。皇室の方も宿泊されたと言う
部屋である。
部屋に入って来る光線によって,色が変わって見える。
  別府と言えば,バスガイドさんは「地獄めぐり」等で切っても切れない緑がある。別府のあの独特のガイド嬢の声は特長があった。別府観光の祖として知られる,油屋熊八は日本で初めて,少女車掌を発案し採用した。当時,衣食住つきで男性の1.5倍の高給だったようだ。別府温泉の目玉,地獄巡りを案内する七五調の歌はなかなかのものだ。「ここは名高き流川」で始まり,60番まである。


 この程,平成21年5月16日油屋熊八爺のモニュメントの除幕式があったが,その熊八爺が最初に採用した日本初のバスガイド,村上アヤメさんが,この程今年の3月30日老衰の為98歳で亡くなった。就職した当時は働く女性への偏見があった時代,「男と女がバスで2人になる職なんて」と身内に言われた事もあったと友人にもらしたと言う。別府を愛し恩人への尊敬の思いを忘れなかった,日本初のバスガイド「村上アヤメ」さんに熊八爺はありがとうと言っているようだった。
 あの温泉地として有名で日本中知らない人は居なかった位時代を風靡し,遊びと言うものは何でもあって,ぽん引きはいたる所におり,酒場は恐く,暴力団のたまり場位に思われていた別府が,今はどこの飲み屋に1人で入っても恐く無くぼられる事はない程,様変りしたのである。『今は暴力団はいませんとはっきり言える町になりました』とタクシーの運ちゃんは言う。そんな別府でこの度の芸術フェスティバル2009は2ヶ月間行なわれた。

※「別府ビーコンプラザ」の3階から写す。開演30分前,舞台の
ピアノにアルゲリッチの両腕が踊った。そして,クレーメンの
バイオリン。あの感動は忘れられない。
   気候温暖な大分県別府は全国屈指の温泉天国である。大分県全体で源泉孔の数は5千余りあり,全国の源泉孔の20%近くを占めて第一位である。
 そして別府の温泉も「別府八湯」と言って,8つの温泉郷で形成されている。夫々泉質とそれに伴う湯の色の違いや蒸し湯,砂湯泥湯などの入浴法の違いがあって変化に富んでいる。
 全国に温泉場は数々あるが,やっぱり大分の別府はNo.1であると思う。楽しみ方も色々あるが,温泉大好きで,まだ行った事のない人,昔行ったが最近は行ってない人,是非行って今の別府を味わって見て下さい。
 この度私達は,「別府アルゲリッチ音楽祭」世界を代表する名手ピアノのマルタ・アルゲリッチとバイオリンのギドン・クレーメルの二重奏,日本で2人だけの合奏は22年振りと言う貴重な機会に,共演曲は,ヤナーチェクとシューマン(第2番)のバイオリン・ソナタの夢の演奏とシビレルような感動を別府のビーコンプラザで味わった。そしてこの別府での芸術フェスティバル2009,を堪能し,別府のある深部・秘部も見た様な気がする。

平成21年6月7日記

 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2009