東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.117

鎌倉「鎌倉宮」と「覚園寺」

青木行雄

※一の鳥居をくぐるとかなり広い広場がある。鳥居の上に
真赤な色を塗っている。しめ縄も他宮とちょっと変った付
け方であった。
※二の鳥居をくぐると拝殿前には,鎌倉宮の伝統とも言える
獅子頭守がデーンと置いてあった。正月の獅子舞の頭を思い
だす。

 いつ行っても鎌倉は人で賑わっている。今日は鎌倉駅前広場バス停4番ホームから,大塔宮行きのバスに乗り,鎌倉八幡宮の通りを八幡宮へ向い正面の通りを右に曲がる,若宮大通りは,かなりの人出だった。八幡宮前を右に曲がると人はかなり少なくなり,駅前から10分程で大塔宮の終点に着いた。そこは「鎌倉宮」の神社で鎌倉の谷の合間にある静かな場所である。一の鳥居をくぐると結構広い広場があって奥に神社が鎮座していた。正殿の右側に木造一刀彫りの武将大型人形があり,自分の体の悪い所を触って神様にお願いすると良くなると言う。誠に素晴らしい神様が居る。鎌倉は小高い山が多く小さな谷の集合体なのだ。だから隣りの村に行くにも山越えしない限り時間が掛かる。だがそれが鎌倉の素晴らしい所でもあるのだ。
 ※谷を鎌倉では「やつ」と読むと言う。
 では「鎌倉宮」についてどんな宮なのから調べて見た。
 鎌倉宮は,大塔宮護良親王をお祀りする神社である。
 護良親王は1308年(延慶元年)に後醍醐天皇の皇子として誕生になった。
 6歳の時に京都の三千院に入り,11歳で比叡山延暦寺に入室し,尊雲法親王と呼ばれた。また,大塔宮とも呼ばれた。そして20歳にして天台座主となった。
 当時,鎌倉幕府の専横な政治に,父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂いられ,親王と共に1331年(元弘元年)6月,比叡山にて討幕の挙兵をする手筈だった。然し,この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ,隠岐に配流となる。
 親王は還俗して,名を護良と改め,天皇の代わりとなって楠木正成らと,幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけた。この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々挙兵し,中でも足利尊氏,赤松則村らが六波羅探題を落とし,また新田義貞が鎌倉に攻め込み,鎌倉幕府は北条一族と共に滅びる。
 そして,後醍醐天皇は京都に還御され,親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となった。
 然し尊氏は征夷大将軍を欲し,諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為,親王は尊氏による幕府擁立を危惧し,兵を集める。ところが,逆に尊氏の奸策に遭い捕らえられ,鎌倉 東光寺の土牢に幽閉される,1334年(建武元年)の11月15日の事である。

※鎌倉宮横のバス停待合場所。以前のポストがバカに目立つ。
ここから,覚園寺へ向って歩き始めた。
※鎌倉宮から覚園寺に向う道。二階堂と言う村である。
鎌倉と言う独特な雰囲気のある町並みを通って,覚園寺
へ行く,いい所だ。

 1335年(建武2年)7月23日,残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた尊氏の弟足利直義は逃れる際に,家臣 淵辺義博へ親王暗殺を命じた。義博は凶刃に対して,親王は9ヶ月をも幽閉された身では戦う事も出来ず,御年わずか28才という若さでその苦闘の生涯を薨じられた。
 1869年(明治2年)2月,明治天皇は建武中興に尽くされ,非業の最期を遂げられた護良親王に対して,遙かに想いを馳せられ,親王の御遺志を高く称え,永久に伝えることを強く望まれた。
 親王終焉の地,東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて,御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられた,こうして創建されたのが鎌倉宮である。
 1873年(明治6年)4月16日,明治天皇は鎌倉宮に行幸遊ばされた。そして本殿をお参りされ,土牢をご覧になり,その後境内の行在所で休まれた。その行在所の跡が,現在の鎌倉宮宝物殿・儀式殿となっている。

 こんな悲しい運命の生涯であった親王の宮,鎌倉宮に若かりし頃の勇敢な皇子の姿を思い浮かべながら,宮内を出た。
  そして今日は一般にあまり知られていない「覚園寺」に行く目的もあって次へ。
 鎌倉宮の左側のバス停の所の道を登って行く,歩道の横に側溝があって水が少々流れている。その岸辺にハギの花が咲いていた。セミが夏を惜しむ様に鳴き,虫も鳴いている。天気も良いし散策には最高の日和であった。10分程歩いた両側の住宅は別荘風の建物で,人影は少ない。静かなこれが鎌倉の町並そのものなのだ。どの鎌倉谷の町も実に良く似ている。この歩道の突き当たりに「覚園寺」はあった。鎌倉宮から14〜15分の所である。少々登り坂だったがそんなに苦痛ではなかった。途中で「二階堂」と言う姓の邸宅があった。かなり広い敷地に品のいい住宅である。こんな家も鎌倉には結構見掛ける家だ。

※覚園寺表階段の入口,観光色の薄い地味な寺であり,
開発がされていない。谷間の寺である。
※1905年(明治38年)に旧大楽寺本堂を移築した愛染堂は
森の竹林の中に建って,秋の紅葉は見事だと思う。

 「覚園寺」この寺は規模は小さいが,敷地は大変広い。最近人気が出てから,入園者が増えた様である。1時間おきに,案内人がついて寺内を説明してくれる。1回約40〜50分掛かる,10時,11時,12時〜と1時間おきに入園出来るが途中では入れない。入園料は500円である。この寺のメインは「薬師如来」と「黒地蔵尊」である。8月10日夜12時から昼の12時まで12時間入園を開放するそうだが,普段は案内時間以外は入園出来ないと言う実に融通の利かない寺である。パンフも寺の案内書もない寺なのだが,内容を聞くと実に奥が深い。だから最近人気が出て人が集まるのかも知れない。勿論,園内は写真禁止で写す事は出来なかった。
  まずこの寺は真言宗鷲峰山「覚園寺」と言って本尊は「薬師如来」様で,創立は1218年(建保6年)義時が設立したと言うから約800年前の事である。そして火災にあって再建したのが1354年(観応3年)足利尊氏であり,天井に本人の書いたと言う書が残されていた。1354年それからの建物と如来像は木造で,本尊と日光菩薩と月光菩薩で両側に6体+6体の菩薩様が世の中の幸せを祈ってくれている。660年経つ建物と菩薩像は全く開発の手が入っていないこの谷の宝物であり,日本の宝物と言える。近くに,「くろマキ」の大木があるが,天然記念物として指定されている。700〜800年経つと言い,凄い大木であった。
 この寺は以前は宗派は色々あって各派の修行道場として発展した様だが,明治の初め1宗に決められた折,真言宗としたと言う。広い園内には色々の木や植物が植えられ,珍しい仏手柑と言う木があった。小さい時は人間の手を結んだ様な格好だが,大きくなるにつれ,手の指が何本もあって,不気味な形となるから,仏手柑と言うのだろう。試食はしないから分からないが,柑と言うからみかんの味かも知れない。他に中国から来たと言う大木もあった。
 鎌倉13仏霊場の話や13仏信仰の話,仏のエンマ様の話,ここにある「黒地蔵尊」の話など,歩きながらの約1時間は,天気も良く,セミ,鳥,虫の声に耳を傾けながら,別天地の1日だった。
 以上は「見たり聞いたり」の見聞文だが,史料より,掻い摘んで記して見ると,
 鎌倉市二階堂にある真言宗泉涌寺派の寺で鷲峰山真言院と号するとある。
 1218年(建保6年)北条義時が霊夢を見た事によって薬師堂を建てたのに始まると伝えられる。1250年(建長2年)火災で焼失したが,翌年北条時頼が再建した。1296年(永仁4年)北条貞時が心慧和尚を招いて開山とし,覚園寺と称するようになったと記されている。
 境内には愛染堂,薬師堂,地蔵堂等があるが,現在の建物は全て足利尊氏が再建したものと言う。本尊の薬師如来像(脇侍の日光・月光菩薩像と共に国指定重要文化財)は運慶作で,十二神将像は宅磨の作と伝えられている。地蔵堂に安置される地蔵菩薩像(国指定重要文化財)は像全体が黒ずんでおり,一般に火焚き地蔵尊,黒地蔵等と呼ばれ,いまなお京浜地方の消防関係者の信仰を集めている。大小様々な洞穴が群集する「百八やぐら」は国の史跡に指定される。
 特に地蔵堂については,鎌倉時代に作られた黒く煤けた地蔵菩薩立像を安置している。この地蔵は業火に焼かれる罪人の苦しみを和らげようと,地獄の番人に代わり火焚きを行い,その為焼け焦げてしまったという。この言い伝えから“黒地蔵”や“火焚き地蔵”とも呼ばれていると言う。周囲に黒地蔵の分身とされる千体地蔵が並び,祈り続けると千体のうち一体が亡くなった人の姿に変わると伝えられている。8月10日の緑日には全国から大勢の人が集まり大盛況らしい。今ではその夜鎌倉の花火大会があって,大変賑わう様だ。
 まだまだ鎌倉にはあまり知られていない神社,寺は沢山ある。鎌倉は世界遺産として申請しているらしいが,日本の都として鎌倉時代があった場所であり,深〜い歴史のある町で何度行っても興味は尽きない。

※(1)

 

平成21年11月1日記

 

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