東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の65(アラカルト・1・2・3)

愛三木材・名 倉 敬 世

太刀 銘 光忠
  太刀 銘 光忠 長さ 72.4cm(二尺四寸)反り3cm(一寸)鎌倉時代・徳川美術館・国宝。

 備前長船派の事実上の祖である光忠は名工の誉が高いが,現存する有銘作は極めて少ない。この太刀は摺上げられているが,豪壮な太刀姿を示し,作風は丁子乱れに互の目を交えており,光忠作中の白眉である。五代綱吉より尾張徳川家三代藩主綱誠に元禄11年に贈った物である。

 梅雨の時期になると,決まって本能寺で志し半ばで明智光秀に討れた信長の事を想う。信長の命により光秀は,秀吉の後詰として中国に向け出立の折りに,愛宕神社に立ち寄り戦勝祈願をして連歌の会を催し,「ときはいま,あめがしたしる,さつきかな」という句を詠み出陣。分岐点の老の坂で「敵は本能寺にあり!」と行先を転じ本能寺に突入したと云う。この句は後世,土岐(明智は美濃の土岐氏の自出)は今,天(下)が手に入る(五月)哉。と伝わってますが,そうなると光秀も天晴れ天下を狙った武将だった,と思えるのでご猿。時(季)は天正十年(1582)六月二日,信長は男盛りの49才,天下の鬼才天才,勿体無し!。信長の佩刀は,「光忠,これえ〜」の台詞で有名な備前長船の租「光忠」,光秀も同系乍ら二代後の「近景」なのでランクは信長が上。〜信長は光忠が好きで80振り集めたとの事。〜


刀 無銘 伝長船近景(歴応三年・1340の年紀あり)長さ68cm(二尺二寸五分)重要文化財。摺上げだが,茎尻に年紀が残り書体により近景と極められている。身幅・切先共に尋常な姿で,鍛えも小板目詰み地沸細かにつき乱れ映り立つ。刃文匂出来直刃に小互目交じり小足よく入る。
 この太刀は羽州・庄内藩(山形・鶴岡)の日向家伝来で,元来は佩表に備前近景の銘と年期の他,「明智日向守所持」との金象嵌があったが,幕末に同家を出ると次の購入者が光秀の所業を嫌い年期だけを残して,銘と所持銘は消去した。何とも心無い行為である。刀の摺上げは光秀自身。

銘 備前国長船住近景 嘉暦二二(四)年□月日

太刀 銘 備前国長船住近景 長さ 80.6cm(二尺六寸六分)反り2.7cm(九分) 鎌倉時代 国宝。 嘉暦四年□月日
 上の絵図の近景と違う太刀だが,生ぶ茎の堂々たる太刀姿を示し肉置きがよく,乱れ映り立つ小板目の鍛えに直刃調に足・葉のよく入った刃文で,同工作中の代表作である。

 因みに信長は猛火の中で「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり〜」と十八番であった幸若舞の「敦盛」を舞いながら人生にセパレートをしたとの事でご猿が,不思議にこの年齢でハライソ(天国)に旅立たれたビックは数多おりまして,秦の始皇帝,聖徳太子,上杉謙信,淀君,真田幸村,渡辺崋山,島津斉彬,天章院・篤姫,西郷隆盛,大久保利通,夏目漱石,三島由紀夫,等の方が鬼籍に転籍をなされたのでご猿るのでご猿。

兼続の甲胃
(上杉神社所蔵)

 只今,NHKの大河ドラマは「天地人」,その主人公の幼名は樋口与六,後の名を「直江山城守兼継」と申す。このイケメン(確かに相当な美男子だった様です)の兼継とは何者かと申せば,樋口兼豊の長男として永禄三年(1560,今川義元,桶狭間で織田信長に討たれる),越後上田庄坂戸城に生れる。父の兼豊は始め上杉謙信と対立した長尾政景(謙信の姉の旦那)の武将だが,政景が横死の後は謙信に仕え軍功あり,栄進を重ね直峯城主で伊予守と称した。1600年の天下分け目の関ヶ原の時は米沢城代。この戦の仕掛人が「石田三成」と「直江兼継」との説もご猿。直江兼継が史上で名が有るのは,この時の家康に対する弾劾状なのですが,この件は又…。





「栄福」直江兼続印      直江兼続画像        直江兼続花押

 ところで,刀剣とこの「直江兼継」とはどう云う関係が有るのかと申しますと,不思議に美濃国(岐阜県)に行き着きます。美濃国多芸郡物部郷多芸村直江,現在の養老郡養老町直江。ここに相州正宗の一番弟子である,志津兼氏の一族が住み着き「直江志津○○」と称する名刀を産して,刀工名も流租の名前(兼氏)から「兼」を通字として,兼○と付けております。従って,「直江兼継」と言う名前は少し刀を齧った人は末関の刀工だんべ,と思う訳ですが,実際は南北朝より続いている名称で,この時期の物は今は多く摺上げ無銘と為っています。「兼継」名の鍛冶は銘鑑には,古刀で六名,新刀は○ですが,新〃刀に二人の名が有ります。関の名工と言うと,関兼元(まご六),兼定(之定・疋定)が有名ですが,兼継はあと半歩です。

直江兼続所持 中島来

 では,肝心の「直江山城守兼継」の佩刀は何であるかと言うと,伝えられている限りでは,写真の如く無銘の極め物なれど,難解な「伝・中島来」と云う,南北朝期の名刀であります。「中島来」とは正式名は「来国長」と云い,初租は山城(京都)の「来国行」と申し鎌倉時代の名人〜先祖は高麗より来た渡来人なので来と称すると言う〜源家の重宝「面影」の作者。国長はその来の一派ながら,時代が時代(南北朝)なので都を逃れ摂津(大阪)に移住していた。作刀数は多く無く,来系のため地肌が肌理細かく流麗であり,切れ味と名前とスタイルが良いため人気が高く,昔は「可然物」として進物によく用いられた。淡路来とも呼ばれた。但し,無銘の極め物が多いので判定は難しい物である。

中島来

 短刀 銘 来国長 刃長30.3cm(一尺) 反り0.3cm(一分)元幅 約3cm:茎長8.6cm。
平造,裏冠落し造,三つ棟,身幅広く,寸延び,重ね薄く,僅かに反りが付く,地肌は板目肌,流れごころに肌立つ。刃文は互の目,小乱れ交り小沸が付く。帽子は乱れ込み先尖って返る。茎は生ぶ,先浅い栗尻,鑢目浅い勝手下がり,目釘穴二個,指表目釘穴の下に三字銘がある。この作は南北朝期のもので,姿が大振りで反りが付き,重ねが薄くなるのは時代的様式である。

太刀 銘 来国長 長さ79.4cm(二尺六寸二分)反り2.6cm(九分)重要文化財。恵林寺蔵。
 鎬造り・庵棟,刃文は直刃で食違い砂流し有り,荒い沸むらが付く,板目肌詰み所々肌立つ。この刀は甲斐武田家滅亡の折り,「心頭滅却すれば,火もまた涼し」,で有名な快川和尚が住持の石和(現甲州市)の恵林寺の重宝であった。

太刀 銘 無銘 伝・来国長 鎬造り,庵棟 刃文は互の目乱れ,棟に受け傷が食い込んでいる。
 この刀は法量,作柄等,不詳のため,只今,問い合せ中であるが,往古より陸奥の桜山神社の重宝にて有名であり,現在は重要文化財に指定されている。

※来月は幕末の風雲児,坂本龍馬の 刀にて候。


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