東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の66(アラカルト・1・2・3)

愛三木材・名 倉 敬 世

太刀 銘 光忠
御物 太刀 銘 則宗 長さ78.2cm(2尺6寸) 反り2.7cm(9分) 鎌倉時代(13世紀)国宝。
 則宗は備前福岡一文字派の事実上の祖といわれ,鎌倉時代初期の刀工であるが,則宗は有銘確実なものは少なく,この作を以って典型としている。この太刀は明治天皇が巡幸に際し,広島に立ち寄った折り浅野家より献上された物であり,大変な愛刀家であられた明治天皇が最も好まれた太刀と云われている。
 以前この欄で維新の志士の佩刀に触れ,近藤勇は長曾根虎徹(実際は源清麿),土方歳三は会津の十一代業蔵兼定,沖田総司は備前三郎国宗,坂本竜馬が土佐の吉行と申しましたが,虎徹や兼定,国宗は日本を代表する名刀ですので兎も角として,吉行は刀工のランクでは二流の下と云う位のポジションなのですが,最近は竜馬のお陰で人気も出て参りましたし,元来,非常に腕の良い刀工ですので今回はこの「陸奥守吉行」を取上げて見ましょう。
 吉行は奥州宇多郡中村(福島県相馬市)の生まれ。森下播磨守吉成の次男で父と兄(上野守吉国)と共に大阪に出て,初代の大和守吉道の門人となり住吉に居住。陸奥大丞を受領の後,陸奥守となり山岡家の養子となる。その後,元禄元年(1688)に兄と共に土佐藩に招かれて鍛冶奉行となり,高知城の東の種崎町に移る。藩主・山内豊昌により長岡郡仁井田村に,一町五反五歩の田地を与えられ,鍛冶蔵(高知市城北町)に於いて藩の番刀を盛んに打った。土佐では吉行の刀を帯びると人を斬りたくなる,と云って敬遠する人もいた様でご猿。

脇差 銘 陸奥守吉行 鎬造り庵棟 刃長54.2cm(一尺七寸九分) 反り1.2cm(四分)。
 大振りの長脇差しで,反り頃合いで中切先,重ね厚く付き表裏に棒樋を掻き流し力ある姿。地鉄は小板目が微塵に詰み地沸が細かに一面に付く。刃文は丁子乱が総体に小模様に並び,小互の目や頭の尖った刃なども交え,小沸出来で匂口締り明るい。帽子は直調でやや乱れ,先きは尖り心に丸く返る。

 尚,土佐藩の下屋敷は,江東区北砂1丁目18〜19番地のスポーツ会館の場所でござんす。吉行も出府の折りにはそこで鍛刀をした事が有った鴨しれません。
 幕末の土佐の名工・左行秀には「於富賀岡八幡宮北・左行秀造之・慶応三年」銘の大変な名刀がございます。この場合の八幡宮は南砂の元八幡と呼ばれている神社の事であります。

 因みに,竜馬の所持刀は色々ありますが彼は大男でしたので,若い頃は長刀を好んだ。その昔,坂本竜馬の差料として高知城に展示されていた刀は,相州鎌倉住国秀の作でした。

刀銘 相州鎌倉住国秀作 二尺六寸六分(80.6cm) 嘉永七年(1854)八月。

 竜馬が脱藩した時に親友の河原塚茂太郎に形見として贈った肥前忠広も二尺六寸でご猿。この刀はその後,武市半平太を経て「人斬り以蔵(田中新兵衛)」に渡り以蔵が本間精一郎を斬った時に物打(切先三寸の下)から折れた,それを平井収二郎が短刀に直し所持していたが,その平井が処刑される時に獄中で同室であり同士でもあった,井原応輔に残して往った。
※脱藩した時に姉の乙女より代々坂本家に伝わる「吉行」を貰った,と言う説もございます。

 竜馬が江戸で,源正雄に打たせ愛用していたのも,二尺八寸二分(85.5cm)の豪刀でした。しかし,齢と共に手持ちの良い短めの刀を好む様になり,西郷隆盛を訪ねた折りに土佐の郷士刀として陸奥守吉行二尺二寸(66.7cm)刀を贈られたので,其れまで差していた正雄を代わりに西郷の近習の熊岡に譲って帰って来たという話がございます。
 後に京都の近江屋で幕府の見回組の7人に襲われ暗殺された時には刀を抜く閑がなくて,鞘で敵刃を受けたのが,その吉行で鞘から刃にかけて三寸程が削り取られていたとの事。
 若い頃の竜馬は北辰一刀流の小千葉道場(千葉定吉)の師範代を勤めた腕前なり,油断か?。時に慶応3年(1867)11月15日竜馬33才(絶命は12月10日)。後二ヶ月で王政復古。

 尚,この吉行を含む竜馬遺愛の長船宗光・勝光の合作刀は,藩命により坂本家を継いだ甥の小野淳輔に伝わるが,子の弥太郎が北海道に移り昭和初年に釧路で火災に会い焼身となる,新日鉄・室蘭の堀井秀明刀匠が再刃をして昭和三年九月,札幌の富田秋霜師が立派に砥ぎ上げたとの事でご猿。
 他に有名な遺品では姉の乙女の嫁ぎ先である岡上家に渡った,毛利公より拝領の大小で大は「備州長船修理亮盛光」在銘の刀,少は豪華な鵜の首造りの拵えの粟田口吉光の短刀。他に竜馬も赤穂義士に憧れたとみえて,「神崎則休差料」と銀象嵌のある刀を持っていたが,その象嵌は?と思い,薩摩の志士・吉井幸輔にプレゼント。後の鑑定では延壽の末物で×。相州正宗?の刀は未亡人のお龍が竜馬の死後,長州の志士・三吉慎蔵に世話になったので,土佐に引き上げる時に三吉に贈った。お龍は土佐では乙女と合わず間もなく横須賀に出た,生活が苦しく備前元重と極めの刀を売りに出し,某氏がそれを買取って宮内庁に献上した。後に陸軍中将・男爵・松永正敏が若い頃に射撃大会で優勝した賞品として,明治天皇からその元重を下賜され,軍刀に仕込んでいたとの事であります。
 お竜が晩年落魄したのを見かねて西原只之進が面倒を見ていたので,相州秋広と鞘書のある無銘刀を西原にお礼に贈った,これが大正元年に売りに出ると,旧藩主の一族である山内豊中が買い取った。竜馬遺愛と称する左行秀の短刀(ドス)も,お龍から出た物であった。その他,無銘だが堀川国広の極めと言う二尺六寸三分(約80cm)の太刀もあったとの事です。又,昨今の竜馬ブームで,刀匠の「吉行」にも光が当ったのですが,行き過ぎて刀では無く「槍」迄も人気が出て参りました,…これは刀に比べ槍は「安価」の所為だと思います…。これらは竜馬のグッツとしてもかなり珍品の部ですので,吉行の槍を是非ご照覧下され!。

兼続の甲胃
(上杉神社所蔵)

槍 表銘 陸奥守吉行 裏銘 土州於城下作之 (寛文・1661〜1672)・江戸中期・高知県。
 平三角直槍 刃長九寸一分(27.6cm) 元幅 八分 先幅 六分三厘 重ね 三分
 スッキリとした平三角の直槍で,中心は長いため途中で切っているが,表裏に銘が入り上出来の作である。地鉄は板目が良く詰んで地沸が良く付き,僅かに柾目心が感じられる。
 刃文は表は直ぐ調に小乱れ交じり,小沸出来でほつれが掛り深めに葉など入りよく働く,裏は直刃で,ほつれや二重刃が交じり,小沸良く付く。帽子,鎬筋上に両側から丸く返る。本作は珍しい吉行の槍で,鍛刀地の裏銘もあり好資料。特別保存の鑑定書付で,価・ソ山。

 江戸期の帯刀には厳格な掟があり,武士(各藩で登録)はフリー,同じ侍の出でも浪人は刀or脇差が一本のみ可,名字帯刀(功績と納税額による)を許された町人は脇差が一本,他の町人と百姓はAll or Nothingで全てダメ,なれど旅の場合は護身用として特別に許可。

※ 刀剣の呼び名は,五寸(15cm)から一尺(30cm)迄が短刀(別名・ドス,脅すより来た),一尺から二尺(60cm)迄が脇差で,長・中・小・に分れ,前記の吉行は一尺八寸と長いので「長ドス」と云われる物です。時代劇の股旅物では,合羽と三度笠と合せてヤクザの三点セットで登場しますが本来は平民の所持は厳禁でご猿。その上の二尺以上が刀となります。太刀は時代により長さが違い決まりはありませんが,通常は二尺五寸(75cm)が標準です。

刀装具の画題・小柄・月に蝙蝠
京 三つ巴透 鍔

応永・永享 室町前期 15世紀前半。縦80.2 横80.0 厚さ 耳4.5切羽台4.5 丸耳。
 三つ巴は武神の八幡宮の神紋である。このような巴は,尾長巴といわれ,時代が上がるといわれている。

 近頃は不況を反映してか,美術品のトラブルを良く聞きます。若し東木(協)の会員の方で「刀剣関係」でお困りの方が居られましたらご一報下さい。正式に「東京都公安委員会」の許可も受けておりますが,ボランティアなのでロハ(無料)で相談に乗らせて頂きやすので…。


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