東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の68(トレサビリティー)

愛三木材・名 倉 敬 世


 この毛抜形の太刀は、645年6月、飛鳥・板葺宮の大極殿に於いて中臣鎌足が蘇我入鹿を討った時の太刀と伝っております、即ち、ここから「大化の改新」がスタートした訳です。
 但し、銘・作風・法量(長・幅)・刃文・等の詳細は不明。大和・談山神社蔵。


 刀剣の「決り事」は数多く有りますが、その中に作者の名前の銘記が大宝律令(701)に義務付けられており、現在のトレサビリーティと同様な、原産地証明がなされております。
 勿論この大宝令は唐から伝えられた律ですが、何んたってこれが今から1300年も前に定められているのですから、JAPANもてぇした国でござんすょ。この10年後の和銅3年、都は平城京に移り、「あおによし ならのみやこは咲くはなの匂うが如く いま盛りなり」の奈良時代となり、天皇は持統女帝の倅の文武帝が即位しますが若くして没、その後は元明・元正と女帝が続き、東大寺建立の聖武帝の後に又もや孝謙女帝となり、次の淳仁帝の後に孝謙帝が重祚し称徳帝と称す。この奈良時代(平城京)は75年の内1/3の25年が女帝の治世である、そうして見ると今の世も「道鏡」さえ現れなければ女帝でも意外と宜敷しいカモ知れませんぞぇ?。
 「大宝令」。唐の「永微律令」の模倣。701年完成、702年・施行、11巻。刀剣に関しては、営繕令に「年月及ビ工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」、関市令には「横刀・槍・鞍・漆器ノ属ハ、各造者ノ姓名ヲ題穿セシム」とあるが、正倉院御物はもとより、その後、200数十年は銘も年月も切る者は現れなかった、大体、職人は文字の読み書きは出来なかった時代だわ。因って、「天国」作で大宝の年号が有り、壇の浦に沈んだ平家の重宝・小烏丸は偽物でご猿。


 小烏丸(正真) 刃長62.7cm(二尺七分)反り1.3cm(四分三厘)御物 宮内庁蔵。
 では、刀剣の最初の製造者のサインは誰がしたのかと申しますと、古くから九州の谷地地方に波平と言う鍛冶の集団が居り、その中の「行正」と言う刀匠が「平治元年八月二日」(1159)と「銘」と「年号」を打っているのが、今の所では一番古い様です。(重要美術品)。
 因みに、この年は「保元・平治」の乱が終った年で、これより「平家」の天下となります。

太刀 銘 行正 平治元年八月二日 (指裏ニ「国安」←所持者銘アリ) 重要美術品。
鎬造り 刃長 二尺七寸二分(82.4cm)反り 九分八厘 元幅1寸1厘 先幅 五分八厘。長寸のカッチリとした太刀姿で、反り高く、腰反り付き、重ね厚く、小切先となり美しい。
地鉄は大板目・綾杉・柾目を交えてねっとりとなる。刃文、中程より上は広めの直刃調。
 伝来は島津本家より東郷平八郎大将に贈られ、さらに小笠原長正(海軍軍人)に譲られた。

 又、この年号より古い年号を使った刀は大宝弐年の天国の小烏丸を初め数多有りますが、悉くダメで正真はこの太刀まで待たねばなりませんでした。平安時代の最末年は1166年。年号は別として、現品で一番古いのは下記の伯耆(鳥取)「安綱」、と言われております。

太刀 銘 安綱(名物・童子切り安綱)刃長 80cm(二尺六寸四分)反り2.7cm(九分)平安時代。
源頼光が大江山の酒呑童子を成敗した太刀。出来、優れ天下五剣の1。国宝・上野国立博蔵。

 所で、刀剣の年記は材木屋にも縁のある?、二月と八月が圧倒的に多いのは何でや、ねん?。

 


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