東京木材問屋協同組合


文苑 随想

生あるものは必ず滅す,急ぐべからず

白坂 鐘蔵


 「生者必滅・会者定離」−この世の無常観を言う言葉で「平家物語・維盛入水」にも書かれている古くから使われている言葉で,葬儀の時に僧侶より何度も聞いた事があると思うが,生まれれば必ず何時かは死があり,どんな親しい者でも何時かは別れる時がある事は分っているが,簡単に割り切れない場合もある。
 私は,休日には成る可くJR,私鉄,地下鉄を良く利用しているが,毎日の様に何処かで人身事故で交通機関が麻痺している所に出会う。殆ど投身自殺と思うが,天より与えられた命を何故無駄にするのか,私共の様に命令一ツ赤紙一枚で呼び出され,一切の自由も無い儘,無念の思いを持って死地に狩り出された者には合点が行かない。
 去る1月31日の新聞記事で27歳の無職の男性がJRに飛び込み自殺したが,その人は,人材派遣会社を昨年暮れに解雇され,その後は,職も住居もなしで,所持金が僅か2,200円であったとの事であるが,事情は分るが何か他に取るべき手段が無かったのかと考える次第である。
 最近の若者を見てると,親しい友達を作らず,メールの交換で意志の伝達をしており,相談する相手も出来ず,家族とか廻りの迷惑も考えずに自己本意で夢や希望や先の事も見えないのであろう。折角この世に受けた命を粗末にしすぎると思う。
 私も昭和14年に徴兵検査を受けて終戦迄6年間,生死の境を何度も越えて現在元気に過ごさせて貰っているのは奇跡と思う事が何度もあり,一冊の本に編集出来る程であるが,人それぞれに貰った寿命があると考える様になった。
 昭和20年8月に原爆が投下された広島の爆心地で,当時,商工会議所書類を取りに地下倉庫に行っていた者が一人助かっていた事を聞いて驚いた次第である。
 戦局も悪くなる一方で,私の学友にもいるが特攻作戦で多くの者が狩り出され若い命を散らして行ったが,沖縄に出撃し撃ち落とされた中で唯一,助けられ現在も「レンゴー」の社長をしている長谷川薫氏の日本経済新聞の最終裏面に平成10年11月3日掲載の記事が奇跡的であるので保存していたので別紙に載せるが,助かる者はどの様な厳しい状況下でも助かる者と確信した次第である。
 私も上述した様に奇跡の連続で現在迄,危機を逃れ元気に過ごさせて貰っているが,数々ある中で特に忘れられないのは戦時中,ある軍事施設にいた時に空襲に会い,解除されたので安心して外に出ていた所を雲の上より突然B29何機かに残り1トン爆弾を30発落とされ,施設内に3発が落下して,その中の1発が私の立っている側に落下したが幸い不発で,私は衝撃で飛ばされ気絶していたが,その後に離れた所に落下し爆発した破片が私の倒れてる上を飛んで行き,私は無傷であった。その衝撃で目が覚めて廻りを見て何も無くなっているのに驚き,若し順序が逆になっていたら骨一ツ残らなかったと思うとぞっとする。
 戦後63年を経過しているが,どうしても脳裏より消し去る事の出来ない光景が時々思い浮かぶ。
 それは,昭和18年の6月に宮城を守る近衛第一連隊に招集され3ヶ月の一期の検閲が終了したときに,天皇陛下より宮城の警備は皇宮警察に任せ,この戦争の天王山と言われる激戦地「レイテ島」に率先して出陣せよ,との命令が出され,9月に隊列を組み営門を同期入隊の者が出て行ったが,通信兵が一緒にいるので行く先は分かり,生還は望めない事は皆に分かっており,私は士官学校への入学が定まっていたので残され,皆を見送った苦しさは耐えられない程で戦後,戦友に連絡を取ったが誰一人として生きて帰っていなかった。その死地に赴く仲間の姿は現在でも脳裏に残っている。
 昨年11月号の月報に記載された様に,私は一昨年7月に急激に体調を崩し,3ヶ所の病院で精密検査を受けたところ,何処にも異状が無いとの診断であったが頭痛,貧血,微熱が治まらないので医師に相談すると,加齢による衰弱で老衰に近いのではないかと片付けられ4ヶ所目の先生より今迄の経過を全部パソコンに入力して貰い初めて頸椎椎間板症と判明し2ヶ月の治療で現況に復帰する事が出来たのは,この先生に出会えたお蔭で,これも寿命があったせいと感じたので,自分から命を粗末にする事は,決してやって欲しくないと思う。

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