東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(37)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 ここ数年来,NHKの大河ドラマは,時代をリードする主役ではなく,舞台裏で重要な役を演じた脇役にスポットライトを当てる傾向があります。
 一昨年の風林火山では,今までは架空の人物ではないかとさえ云われていた山本勘助は,武田信玄を,城造りや諜報活動等で参謀として支えました。自ら演出した川中島の合戦では,啄戦法を上杉軍に見破られ,自ら敵中に身を投げ出して壮絶な最期を遂げました。
 昨年大好評であった篤姫は,勝海舟や山岡鉄舟のうしろで,薩摩方に嘆願して江戸の町を戦火から救いました。幼馴染みという設定の小松帯刀は西郷隆盛と大久保利通を前面に立て,裏では自分の屋敷に坂本竜馬を招いて薩長同盟を画策したり,徳川慶喜に大政奉還を勧める等,明治維新の大きな原動力となったことが最近漸く認められ,平成16年,鹿児島県に銅像が立てられました。
 今年の大河ドラマ「天地人」の主役は直江兼続です。幼い時から反骨精神が旺盛で,義の為には利を顧みず,家康の専横振りにも一歩も引かず,それでも,主君の為,領民の為,盟友石田三成率る西軍が破れても,許しを乏い,強かに活き残るということは,現代社会にも通用する処世術ではないでしょうか。
 今から10年程前のことですが,宇都宮から奥州街道を北へ一里程行くと,白沢という宿場がありました。日本橋から宇都宮まで,奥州街道と日光街道は同じ道を行きます。
 私の街道歩きは,日光街道を東照宮まで歩き,その後1年以上中断しておりました。
宇都宮から日光までの杉並木は素晴らしく,途中で例幣使街道がV字状に合流する地点は私が最も好きな処で,樹齢300年以上の杉の大樹がW字状に並んでいる様は圧巻です。
 白沢の宿場に入りますと,今はほとんど人は住んでいないのですが,当時の問屋等の家並が屋号を付けてT字状の街道沿いに建っております。何故人も来ない,観光地でもないのに居住しながら保存されているのだろう,と訝りながら歩いておりますと,街が形成されたときの由来が,高札場のあった処に記されていました。
 これは,徳川家康が上杉征伐に行くとき,尖兵隊が,岡本村庄屋福田家と,白沢村庄屋宇和地家,2人の名主に声をかけ,会津に攻め入るとき,約12万の軍隊が行進する為に兵站等の補給路として協力するよう要請し,その功によって,平和になったとき,2人の名主以下数十名のメンバーに街道を守る役とその身分を安堵する約束をし,明治以降,役目を終った後も,今日まで祖先の役目を誇りとして保存されていることが記されていました。
 その約1年前小山を通ったとき知ったことですが,ここで会津に向う徳川軍に,石田三成が西で挙兵したという報らせがもたらされました。三成は主力の武将の妻子を人質にとり揺さぶりをかけます。ここで後に有名になった小山評定で,急遽反転し,江戸経由で西へ向かうことになります。家康の三男秀忠は三万八千の兵を率い中山道経由で西へ向かいます。小山から白沢までは35キロ離れておりますが,鬼怒川の渡河等要衝として万端怠りなく,或いはもっと北の方まで手筈を整え,石田三成の挙兵がもっと遅ければ,当然会津から越後にまで攻め入る勢いであったと思われます。その後1ヶ月半経って関ヶ原で東西両軍が激しく火花を散らします。
 石田三成と越後の上杉景勝は綿密な協議を重ね家康の挟撃を企てていたようです。この作戦を立てたのは三成の重臣,島左近と直江兼続であったと云われています。
 関ヶ原の合戦は西軍小早川秀秋が東軍に寝返り,たった1日で決着がつきます。
 秀吉の死から,家康の専横,それを許すことの出来ない石田三成が兼続と連携をとり,如何にしてクライマックスの関ヶ原までに到るか,兼続の人間形成までを含めて大河ドラマは歴史の舞台裏を心ゆくまで見せてくれることでしょう。




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