東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(41)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 3月28日,東海道ネットワークの例会で,案内を買って出て頂いた大松騏一氏が,5年の歳月と,30団体千人のメンバーによって神田川水系を踏査し,編纂した大冊「神田川再発見」を購入申し込みをし,送付頂いたのが4月初旬でありました。
 今回は本著を繙きながら東京の歴史を探訪します。
 徳川家康が小田原征伐後,秀吉の命により江戸に拠点を構えた際,関八州を水のネットワークで結び,物資の運搬と水上交通の便をはかりました。大川(今の隅田川)を洪水から防ぐ為に,利根川を銚子へ流しましたが,これは世界的に見てもスエズ運河に匹敵する大土木工事であったと云われています。
 都内は神田川,善福寺川,妙正寺川,江古田川が下落合で合流し,神田川となって水道橋付近で日本橋川と岐れ隅田川に注ぎます。
 隅田川の東は上水が越えることが出来ず,深川地区では塩分を含んだ井戸水は飲料水に適さず,日本橋一石橋でおこぼれの水を,はこ舟に入れて売り歩く水売りから毎日の飲料水を買わないと生活することは出来ませんでした。
 神田川の源は井の頭池です。武蔵野の侵食谷を蛇行しながら流れる神田川の両岸は耕作の適地で,縄文時代から多くの集落がつくられて来ました。律令制度が定められ武蔵の国と云われていましたが,今は井の頭公園を含む地域が武蔵野市となっています。国木田独歩が著した武蔵野はもっと広範囲の林を指しているようです。
 神田川の支流善福寺川の源は杉並区の善福寺公園内の遅乃井です。奥州征伐に向かった源頼朝がここで陣を敷き,弁財天に泉の湧出を祈ったという伝説があります。神田川への合流点和田広橋まで10.5kmありますが,川沿いには,菅原道真や太田道灌などが関った旧跡があり,住民の手厚いケアによって景観が保たれ,水辺の宝石「カワセミ」に出会えることもあります。
 もう一つの支流妙正寺川は源が妙正寺池です。川の名の起源となった妙正寺は文和元年(1352)創建というからかなり古い。川の起点と終点は奇しくも同じ落合橋です。落合とは二つの川の合流する地の意ですから,これは不思議でもなんでもないのですが…。
 終点の周辺は中野区下落合です。川沿いは花鳥風月に富む景観が続き,川に架かる橋は鷺のつく名が多い。上流から,白鷺橋,鷺の橋,双鷺橋,下鷺橋,鷺盛橋と6橋があります。
 ここまで書いて来て,小生大変恥ずかしい思いをしております。と申しますのは,三つの源のうち,井ノ頭池は何度も行ったことがあり,その素晴らしさは充分認識しておりますが,善福寺池は名前は知っていますが,未だ行ったことがありません。妙正寺池に到っては,名も知らず,まして見たこともないという始末であります。こんなに身近に素晴らしい処があっても行ったことがない処が如何に多いことか。
 恥ついでに白状しますと,1年程前に載せて頂いた柴又帝釈天散策の中で,外国人観光客の人気ナンバーワンの庭は足立区の島根庭園であると書きましたが,なんとそれは島根県の足立庭園の間違いでありました。足立区に島根という町名がありこれを勘違いして,行って確認もしないで書いてしまいました。何故分かったかと申しますと,組合月報の全号がインターネットに掲載されて居り,案内して下さった友人の風見さんがカザミで検索して見つけ,会合で会った際指摘してくれました。
 話が横道に外れましたが,東京都の中心部は神田川水系に覆われており,既に涸れてしまったり,暗渠になった川も含めて,我々の祖先はこれらの水系と親しく関って暮らして来たに違いない。今後は本著を片手に,散策しながら遠く祖先の人々が織りなす歴史に思いを馳せる楽しみを発見致しました。いつの日か,体験談を披露する機会がありましたらどうかお付き合い賜り度お願い致します。


神田川水系全図
 



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