東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.120

「日本航空(JAL)の倒産」(平成22年1月19日)
青木行雄

 平成22年(2010年)1月19日,日本航空と主要子会社2社は,東京地裁に会社更生法の適用を申請し,更正手続きの開始決定を受けた。負債総額は3社で計2兆3,221億円に上り,事業会社としては,戦後最大の経営破綻となった。
 企業再生支援機構は19日,支援を決定し,運航に支障が出ない様に政府も全面的に支援すると声明を出した。国を代表する「ナショナル・フラッグ・キャリア」は,法的整理による債権の大幅カットと公的資金の投入による事実上の政府管理で再建を目指す事になった。
 19日引責辞任した「西松遥」社長は記者会見で「政府,金融機関,株主,国民の皆様に最後のチャンスを与えて頂きました」と法的整理への理解を訴えた。
 これに先立ち会見した前原誠司国土交通相は「最後は国が助けてくれるという甘さがあった」と,法的整理を支持した理由を説明したと言う。
 日航の法的整理は,債権者,関係者等と事前に合意する「事前調整型」と呼ばれる手法を採用している。支援機構は,燃料代等の商取引債権や顧客のマイレージを全面的に保護する。

 政府は日航が就航している「35ヶ国」の地域で大使館を通じ日航との商取引を続けるよう要請する等,運航継続に全力を挙げた。
 又,支援機構は株主責任を明確にする為資本金を取り崩す100%減資を行い,株券は無価値となる。これを受け,東京証券取引所は19日,日航の2月20日付の上場廃止を決めた。
 再建計画では,日航がこれまでの業績の悪化で約8,600億円の債務超過に陥っていると試算した。金融機関による約3,500億円の債権放棄や企業年金の減額等で計約7,300億円の債務カットを実施する。その上で,支援機構が3,000億円を出資する。また支援機構と日本政策投資銀行が6,000億円の融資枠を設定し資金繰りを全面的に支える。
 グループの人員の約3割に当たる約15,000人を削減する他,国内線で17路線,国際線で14路線の計31路線から撤退する等のリストラを実施し,3年以内の再建を目指すとなっている。平成21年12月29日の日航株券は88円だったが1月20日整理ポストに入って4円で取引され2月5日1円になっていた。
 更生開始決定を受けたのは,日航と運航子会社である日本航空インターナショナル,金融子会社のジャルキャピタルの3社である。3社の昨年9月末時点の負債総額は2兆3,222億円で,2000年に破綻した「そごう」グループを超え,事業会社では過去最大と言う。
 高コスト体質の改善が進まなかった事に加え,2008年秋のリーマン・ショック以降の世界不況等が響き売り上げが急減した。財務体質は悪化の一途を辿ったと言う。新政権が救済に動かなかった事も破綻の一因ではと新聞にも書かれている。

日本航空
 1951年(昭和26年)に戦後初の民間航空会社として設立。米ノースウエスト(現デルタ)航空の機材と乗員を借りて運航を始めたと記されている。1953年(昭和28年)に国が50%出資する半官半民の特殊法人となり,1954年(昭和29年)に国際線に参入した。そして日本を代表するナショナル・フラッグ・キャリアとして路線網を拡大して行った。
 1987年(昭和62年)に完全に民営化となり,2002年(平成14年)には旧日本エアシステムと経営統合した。2009年(平成21年)3月期連結決算は売上高,1兆9,511億円上げたが,最終損益は631億円の赤字だったと言う。2009年の連結時従業員数は約4万8,000人であった。
 1951年(昭和26年),国策航空会社として発足以来,国を代表するナショナル・フラッグ・キャリアとして歩んできた日航であったが,1985年(昭和60年)の夏,群馬県上野村の御巣鷹山の尾根にジャンボ機が墜落した。事故後の経営再建に向け,政府は鐘紡会長だった伊藤淳二氏を日航会長に送り込むが,労使紛争の激化で退任を余儀なくされたと言う。
 日航の隆盛は日本の戦後復興と軌を一にしている。一時は「世界で最も安全な航空会社」とされ,国際線の定期輸送実績で世界首位に立った事もある。
 1987年(昭和62年)に完全民営化したものの,旧運輸省や国土交通省からの天下りは相変らずだったと言う。
 2002年(平成14年)の日本エアシステム(JAS)との経営統合を機に,リストラに取り組むべきだったにも関わらず,経営陣は問題を先送りして手を付けていない。相前後して,米中枢同時テロや新型肺炎(SARS)が発生。一昨年秋,顕在化した金融不況で海外比率の高い日航は大幅な需要減に直面したが,社内には「国がなんとかしてくれる」との甘えがあったと言われる。そして業績悪化の度に投資銀行や取引金融機関から融資・出資を受けてしのぎ慢性的な赤字を温存して来たとも言われる。
 然し,国の航空行政の責任も重いのではないか。日航に採算の取れない地方空港への就航を求めた他,空港建設費用を他国に比べ割高な空港着陸料の形で負担させたとも言うのである。
 現在,国内空港は98港あると言うが,47都道府県に2つずつあると言う計算になる。
 新聞記載を見ると平成18年度「空港別収支試算結果」を見ると黒字は新千歳と大阪(伊丹)の2空港等に過ぎず,約9割が赤字だと言うし,空港整備の為日航は着陸料を拠出し続け,20年度連結決算によると負担額は,1,600億円に上ると言うから,凄い額なのである。
 それでも,国際線の路線は2国間の政府協定で便数や価格が決まる等「競争の無い別世界に住む感覚」があったとも言える。
 今世界の航空業界を取り巻く環境は激変し,格安航空券や低コストの航空会社が珍しく無くなった。採算度外視の路線,JASとの統合で8つに増えた労組,高利回りの年金保証……。日航の抱える課題からは,時代に取り残された姿が浮かび上がる様である。
 私は1963年(昭和38年)に結婚して羽田から北海道に日航で新婚旅行に行った時の事を思い出した。当時はまだ飛行機で新婚旅行に行く人は少なかった時代で大変誇りに思っていた。あのタラップで送りに来てくれた人達に手を振った思い出は忘れない。

 日航の歴史は戦後日本の歴史でもある。JALの黄金時代を新聞,週刊紙等で拾って見た。
 1951年(昭和26年)8月1日,会長に藤山愛一郎日商会頭(後外相)を擁して,日本航空は花々しく誕生した。
 最初の就航は,同年10月25日,東京⇔大阪⇔福岡を結んだ。東京⇔大阪の料金は6,000円。当時の国鉄の料金が運賃770円,プラス特急券千円だから,航空運賃がいかに高かった事が分かる。
 その僅か3年後に東京−サンフランシスコ線を開設したのも,「半官半民」の体制であったからである。こんな時代,あらゆるVIPが,日本航空に搭乗して移動した時期がある。鶴丸マークの機体に乗ることは,日本人の憧れであり,誇りでもあった。私も日航が誕生してから12年後ではあったが,そんなVIPの気持ちで新婚旅行に日航を利用した。両陛下が飛行機で御旅行される16年前の事だった。
 昭和天皇・皇后両陛下が初めて飛行機に乗られたのは,1979年(昭和54年)札幌から東京までの空の旅を,日本航空の飛行機で楽しまれた。8月23日,羽田に到着された時日航のタラップから,帽子を片手に降りて来られる姿は今でも思い出深い光景である。
 その後,両陛下は,訪欧,訪米でも日航特別機を利用された。
 日本中を熱狂させたザ・ビートルズも,来日に利用したのはJALである。羽田に着いた4人はJALの半被を着てタラップを降りて来た。日中国交正常化を進めた田中角栄首相もJALを利用した。当時は日本航空が主流だった。
 あの美人,藤原紀香や斉藤慶子等もJALキャンペンガールとして憧れの対象となった。

※1999年(平成11年)沖縄キャンペーンで
キャンギャルを務めた藤原紀香の妖姿
※なつかしい,鶴丸マーク
 JALの悲しい事件も思い出される。
 今から40年も前になるが,1970年(昭和45年)に羽田発板付(現福岡空港)行きの351便が,1977年(昭和52年)にはパリ発東京行きの472便が,共に日本赤軍によってハイジャックされた。
 日本航空乗機の「もく星号」が1951年に初就航したが,翌1952年4月に同機が三原山に墜落した。乗員乗客合わせて37名全員死亡したが,その時のニュースは今でも思い出される。また,1982年(昭和57年)2月9日の羽田300m前での墜落や,1985年8月12日の123便,御巣鷹山の墜落事故等悲惨な事故も起きた。
 1951年(昭和26年)花々しくスタートした日本航空は,2010年(平成22年)1月19日倒産の型を取って整理し新たに,2月1日,新会長「稲盛和夫」氏日航会長としてスタートを切った。
 その間,59年の間色々な歴史と盛衰があり過ぎた。
 日本を代表する「日本航空」がこんな形で整理に入った姿を見るのは辛い。世界の中の日本を見た時に世界の人々はどんな感覚で見ているのか。日本の信用損失は甚だ大きいと思う。こんな状況になる前に政府は手を打てなかったのか。この日本航空の同類が外にも沢山あるような気がする。そしてこの日航が戦後の日本を占う見本かも知れない。誠に残念で仕方ないが,再起を願うばかりだ。そしてまた世界中の空を飛び廻って欲しい。


平成22年2月7日記

 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2010