東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.121

中山道  木曽の「奈良井宿」
青木行雄
※ 奈良井宿の街並。こんな雰囲気の街並が約1km続く。
木造の建物で江戸時代の家並に心を奪われた。

 ご存知ですか?「奈良井宿」を。日本一の宿場町なので,訪れた方も多いと思うがちょっと詳しくご案内したいと思う。
 江戸時代,街道に付属して,運輸・通信・旅行者の宿泊等の為に設定された町場である。中山道「奈良井宿」は江戸から64里(256 )江戸側より数えて34番目の宿場町であった。
 中山道とは律令制時代から東山道と呼ばれた,京都と東国を結ぶ重要な街道であった。その後1603年(慶長8年)江戸に幕府を開いた家康は東山道を整備,江戸と各地を結ぶ五街道の内この中山道をその一つとした。この中山道の半分は山間部なので東海道とは異なり,大雨による川留めが少なかった為,大名行列や幕府の役人,十返舎一九や貝原益軒など多くの文化人たちも行き帰した。また,皇女和宮を始め,都を離れ将軍家に嫁ぐ姫達も通り,いつしか「姫街道」と呼ばれる様になったとも言う。
 中山道の宿場は日本橋を出てから板橋宿を始め,大津の手前に草津があるがその手前の守山迄を言い,中山道全部で67宿あった。その中間が34番目「奈良井宿」である。木曽内には11宿あって,その内今に残る「馬籠宿」「妻籠宿」等,観光の名所として知られている。
 また,ちょっと本題から逸れるが,奈良井等今の塩尻市内に5宿あったが,この塩尻市奈良井と木曽郡木祖村の境に位置する「鳥居峠」は古くは吉蘇路の県坂,中世にはならい坂,薮原坂と呼ばれていたと言う。
 標高1197m,峠山は1416mあり,旧中山道の難所として旅人を苦しめていたと聞く。
 中世には尾張と信濃の境という事もあり,戦いが何度もあったらしい。
 木曽義昌と武田勝頼(武田信玄の四男。甲斐武田氏最後の当主)の戦いで多くの兵士を埋葬したという葬沢がある。
 峠の名の由来は,木曽義元が御嶽山に戦勝を祈って峠に鳥居を建てて以来,「鳥居峠」と呼ばれる様になったと言われている。
 この事は調べていて分かったのだが,「鳥居峠」は,奈良井川は日本海側に,木曽川は太平洋側に中央分水嶺となると言う。
 もう少し,寄り道を聞いて頂くと,私の大分の田舎に菊池寛原作の小説,市九郎と言う僧が開削したと言う青の洞門の小説,「思讐の彼方に」の中に出て来る。江戸で主人を殺害し,市九郎は主人の嫁お弓とかけ落ちをし,この「鳥居峠」で茶屋を営んでいた。そして裏では恐ろしい人斬り強盗を生業としていた。後に減罪の為に大分県耶馬湲町のこの青の洞門にて開削したと言う話。又,真田十勇士の一人猿飛佐助は,この鳥居峠の麓に住む鷲尾佐太夫という郷士の息子として生まれ,忍術の修行を積んだと戦前の「立川文庫」で紹介され,人気を得た。「鳥居峠」には話が色々ある。
 私達はこの日本一の宿場町「奈良井宿」に行ったのは紅葉にはちょっと早い10月の中ば過ぎであった。伊那側より,近年開通した「権兵衛トンネル」を通り「奈良井宿」に入った。1978年(昭和53年)5月31日に文部科学省選定重要伝統的建造物群保存地区に選定を受けた1kmに及ぶ江戸時代風の町並を散策したのである。

※ 我々が食事を頂いた「徳利屋」で,木造2階家,
40〜50名の食事が出来る。如何にも宿場の雰囲気
が漂う。
※ 「徳利屋」の部屋にあった昭和初期のアメリカ製
のピアノ。当時は大変な高級品。
※ 「徳利屋」の「五平もち定食」5品付いて1,680円。
手頃な値段か?奈良井宿の限定定食か?徳利屋の
メインか?

 散策前に昼食を予約してあったので「徳利屋」と言う店に入った。昼時ではあったが40人位入る部屋は満員であり,我々予約席のみ空いていた。築約170年にもなると言う木造の屋内には歴史の重みを感じた。70才になると言うおかみさんの案内で奥の部屋に通されたが,その部屋には昭和初期に買ったと言う古い「ピアノ」があった。日本に数少ないアメリカ製のピアノと言う。とても歴史を感じるピアノであった。予約の定食は「五平もち定食」。1,680円は地元食らしい変わったおいしい食事だった。
 ちょっと「五平もち」の説明をすると,伊那谷や木曽谷を中心に作られている米で作った餅の事で,かつては豊作の祈りや新穀の感謝を込めて春と秋に神前に供えられた物と言う。夫々の家に伝えられた作り方や味があり,庶民にとって貴重品だった米から作った「五平もち」はもてなしや祝儀に欠かせない晴れの食べ物だったとおかみは話してくれた。
 お米・木の串・味噌などに山の幸である胡桃・山椒など季節の物を加えたたれを付け炭火で香ばしく焼いた物で,餅というより形の違う焼きおにぎりに近いかも知れない。
 名前の由来は押し潰したご飯を軍配型にして割木に貼り付けた形が御幣に似ている。又,山尾五平という宮大工の棟梁が弁当の握り飯に味噌を付けて,焚き火で炙って食べた。山里に伝わるシンプルな郷土料理である。
 ゆっくり全部を見るにはかなりの時間が掛かるが,ボランティア案内人の案内で要所要所を2〜3回った。
 奈良井の宿場を散策すると,各家の玄関上の木札が大変目に付く,この奈良井宿では,今でも屋号を使う機会が多いと言う。
 日本における屋号は,江戸の昔,身分制度により武士以外は苗字を名乗る事が出来なかった為,屋号を付ける様になったらしい。
 屋号の代表は,歌舞伎の世界や現在のデパートを始めとする商業界に見る事が出来る。
 歌舞伎では音羽屋,高麗屋,デパートでは高島屋,松坂屋,松屋,商業界では,紀伊国屋,加賀屋など多くの屋号が使われている。

※ 昔懐かしい,越後屋の看板。ここでは,食事処
とお土産屋を営んでいる。
※ 宿場町の中程に「鍵の手」の場所があって立看板
があった。ここから「中村邸」の見学に行った。

 奈良井宿では,越後屋,伊勢屋,松坂屋,油屋,門屋,枡屋,食事をした徳利屋等,その当時の出身地や職業等によって付けられた物と思われる。
 又,屋号の無かった家でも,最近は職業や苗字,分家した事から床屋,髪結屋,丸吉,新伊勢屋等,新しく作られた物もあり家々の歴史が窺えて,この屋号を見ながら散策するのも実に楽しい。

※家康が幕府を開いて整備した,五街道,東海道,中山道,日光道中,奥州道中,甲州道中である。
 中山道は,江戸の日本橋を始まりとし,一次目が板橋(東京都)で群馬県,長野県,岐阜県を経て草津で東海道と合流し,京都に達する。

 奈良井宿で代表的な建造物。「中村邸」を見たので紹介したい。
 中村邸は,川崎市,日本民家園への移設が決まっていた。然し奈良井の地にあってこそ存在価値があるとの考えが村中で起こり,官・民・学関係者が一体となり,歴史的資産の再確認,継承,維持の為に地元が決起し残す事になった。
 「ここは天保の櫛商人,中村屋利兵衛の御屋敷にて候」
 とある様に,木造2階建の建物で江戸時代の櫛屋中村利兵衛の屋敷であった。
 中村邸の主屋は,間口が狭く奥行きが深い短冊の敷地に,間口三間2尺,奥行き九間半の規模で細長い2階建てである。散策の途中で以前親しくしていた,知人夫婦に会ってびっくりしたが,縁があったのかこんな遠い長野の観光地でばったり会うとは夢にも思わなかった。記念に一緒に写真を撮りお別れした。

 「旅人は,奈良井宿で,あすは鳥居峠越え」と,木曽路最大の難所として人々に恐れられた「鳥居峠」その峠越えを明日に備えた昔の旅人は山峡の宿場町の風情に浸り,一夜の夢を結んだという…。昔ながらの面影を残す奈良井宿。日本一の宿場町,その象徴的建造物群があるこの奈良井宿で江戸時代を想像しながら,「ちょんまげ」の旅姿で歩いて見たなら,もっと江戸時代の旅人に浸れたのかなーとも思った。懐かしい思い出の一日だった。



 


  写真協力,伊東秀晃氏

平成22年3月7日 記

 

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