東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.122

奈良県橿原市「橿原神宮」紀元祭
青木行雄
 平成22年「建国記念の日」2月11日、縁あって、奈良の「橿原神宮」に参拝。紀元祭祝賀会に参列した。厳粛な雰囲気に勅使参向のもと行われる紀元祭は、登録参拝者5,000人、中庭テントの中に着席し、時代絵巻そのものの衣裳をまとい、勅使を迎え、陛下よりの御調物を篭にて運び、飛鳥井宮司がお受けし、祭壇に供える。一連の儀式は、江戸時代にタイムスリップした様だった。
 橿原神宮の建国記念日には右翼の街宣車が集結する事で有名であるが、実際この目で確認した。右翼とは早く言えば「天皇陛下万歳」の人達である。一般参拝者達ともめる事はないが、特異な服装や行進等、団体により違いが大きく、一般の人から見ると特別な人達である。何拾台か何百台か分からないが神宮前には、右翼の車と一般人の車がごった返していた。車を降りて、10人足らずの団体、20〜30人の団体、40〜50人以上の団体。等、色々だが国旗と団体独自の大きな旗を掲げ大きな声を出しながら行進する。陛下万歳、国歌、独自の歌等、さまざまに整列して行進、軍服姿等が目立った。
※ 勅使が陛下よりの御調物を持参する行列で
20人〜30人は居た様だ。
※陛下よりの御調物。これから中の御調物を出して
神前に参上するのは飛鳥井宮司である。
※中庭のテントと本宮で右側が特別招待者の席と
テントの中は、登録参拝者5,000人。
※巫女の人達。これから舞が始まる。7〜8人は
居た様だ。
 近鉄の橿原神宮前駅で下車し、橿原神宮に向ったが10分位の道のりに祭日なのに国旗が1本も建って居るのが見えない。どうしてかと近くの人に聞くと以前、何年か前に日の丸の国旗を手あたり次第荒らし足踏みした左翼の連中が居て右翼ともめて大混乱した。その後、あえてこの日には出さない事にした様だ。

※京都より近鉄特急にてこの橿原神宮前駅まで
約50分、神宮前参道に直結である。本殿まで約
10分位はかかる。
※第二大鳥居。この右側に駐車場があって右翼の
街宣車で一杯であった。
※外拝殿の入口に大門があって、入口にこの記事
が書かれていた。
※内拝殿前のテント内風景である。右側2,500人、
左側2,500人、合わせて5,000人のテントは見た事
がない程大きい物だった。
 今年は左翼は居ない様で、混乱はなかったが、儀式の最中遠くから国歌や変な雑音も耳に飛び込んで来た。それもそのはず、中庭の登録参拝者テント内5,000人の外に外庭には参拝者と右翼の人達何万人かが儀式中溢れていた。

  紀元祭について勉強して見た‥‥‥
 日本の建国とは大昔の神話までさかのぼる事になるのだが、初めに「イザナギ、イザナミ」の神が、日本の国土と多くの神々をお産みになった。これは神話に出て来る。
 その「イザナギの神」が黄泉の国(死者の国)からお帰りになり、川で身を清められた(みそぎ)時に、お生まれになったのが「天照大神」なのである。「天照大神」は神々の中心神として「高天原」を治められ、やがて「ニニギノミコト」に三種の神器(鏡、剣、勾玉)を授けて、「高千穂」の峰に天降らせます(この三種の神器は現在も、天皇陛下の地位を示すものとなっている)。「ニニギノミコト」の曾孫の「神武天皇」は、国中がいくつにも分かれて相争っていることをお知りになり、人々が安心して暮らせるようにと、これを統一するご決心をなされる。そして、「ニニギノミコト」がこの国土に降られた日向の国高千穂から、天下の政治を行うべくはるばる「東遷の途に立たれた。途中、幾多の苦難にあわれながらも、神々の導きを受け、ついに大和の国を平定され、橿原の地で第一代の天皇の御位に即位されたのである。この日が皇紀元年(西暦紀元前660年)2月11日のことで、この日が建国記念日(紀元節)になったと言う。
 神武天皇はご即位に先立ち「八絋為宇」世界をひとつの家のようにすることを理想として宣言されたといわれる。
 現在の天皇陛下は神武天皇から第125代の陛下であらせられる。

「世界の国々の建国記念日」
日  本 2月11日 建国記念の日 ※紀元前660年、神武天皇がご即位された日。
アメリカ 7月4日 独立記念日 ※1776年(日本では江戸時代 安永5年)、イギリスから独立を宣言した。
インド 8月15日 独立記念日 ※1947年(昭和22年)、イギリスから独立した。
イギリス なし  
中  国 10月1日 国慶節 ※1949年(昭和24年)、毛沢東が建国宣言。
韓  国 10月3日 開天節 ※紀元前2333年、古朝鮮王国が建国。
フランス 7月14日 バスティーユディ ※1789年(江戸時代 寛政元年)、フランス革命が始まった日。

 比較的関東の人達には、遠い事もあるが、関心は少なく知らない人も多いと思う。そして不便で行くには時間もかかる。然し、日本天皇制の皇紀元年の本宮がこの奈良の「橿原神宮」なのだ。
 橿原神宮は神武天皇が即位された畝傍山の南東、橿原宮の旧跡に位置している。
 国内統一をはかられた神武天皇の建国の大業を仰ぎ、その御威徳を敬慕し、神社創建の声が、民間有志から起こり、元京都御所の賢所と神嘉殿を明治天皇から下賜され1890年(明治23年)4月2日に御鎮座されたと言う事である。
 1940年(昭和15年)には、紀元2600年を記念して、宮域整備拡張事業が行なわれ、本殿拝殿の修復と幣殿、内拝殿、外拝殿、廻廊の施設が素木造りで造営されたと記されている。
 行って見て驚いたのだが、広大な御神域は何と15万坪(495,500m2)、雄大豪壮な佇まいと森厳崇高な雰囲気で、境内を包み、全部見た訳ではないが見事と言う外はない。
 神武天皇についてもう少し詳しく記すと‥‥‥
 紀元前667年10月5日、日向の国をたたれ、紀元前660年2月11日、橿原の畝傍耶山まで進まれ、ここで初代天皇として即位され、畝傍橿原宮で大和の国を建国されたのである。そして1890年(明治23年)橿原神宮が新たに建てられた。
 日向三代で、神世は終り、神武天皇より人の世が始まることになるのだが、実に神話の世界そのものと言える。
 神社史を見ると、古事記により、137歳で(日本書記127歳)で亡くなられたとあり、神武天皇のお墓の地は色々言われていた様だが、幕末に橿原市大久保町の円墳が神武天皇陵と特定された。文久年間に修復、拡張工事がなされ、明治になっても拡張、整備がされて現在のような壮大な御陵となったと言う。この御陵は、畝傍山東北陵という事である。
 日本が敗戦になったのが1945年(昭和20年)だが、1952年(昭和27年)、連合国の占領より、独立した、1985年代(昭和60年)に入って、建国の記念日を再び設立すべきだという意見が出てきた。色々議論はあったと言うが、建国記念日も、独立記念日もない国家はあり得ないと言う意見が出て結局、2月11日を戦前の「紀元節」が「建国記念の日」と名を変え、1967年(昭和42年)より国民の祝祭日となったのである。
 この様な訳で、日本発祥の地、建国記念日にこの奈良の「橿原神宮」が紀元祭として、盛大に行なわれる理由がお分かりだと思う。
 もう少々、神社史により「橿原神宮」の宣伝をすると、神武天皇は御年45歳で日向国を御進発になり、6年の歳月を道中で費やされ、最後に大和国に入られて、畝傍の橿原に都を定められた。その間、実に言語に絶する艱難辛苦を重ねられた。天皇が非常な苦難の末に大業を完成された事は、実に運勢強大なお方であった事、橿原の宮に即位されてより御在位76年、日本建国の基礎を打ち立て、政治の根本を定められて、宝算137歳(日本書記127歳)の長寿を全うする。この事は天皇が如何に健康であったか、同時に延命と長寿を願う国民の理想を叶えられる。天皇の御長寿に因んで、年頭に延寿祭を執行し、皇室の弥栄と国民の延寿幸福を祈願している橿原の神社なのである。
 建国記念日2月11日の紀元祭について色々と記してきたが、日本の原点を考え、神話的とは言え、日本の歴史を顧みるのも大事な事だと思った。そして今回の「橿原神宮」紀元祭参列が、如何に私にとって有意義であったか、心に噛み締めている所である。
 最後に五千何百人かが合唱した「君が代」の他に「紀元奉頌の歌」の歌詞を記して終りとする。

平成22年4月4日記

 

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