東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.128

大分県中津市 羅漢寺と鱧料理
青木行雄

 奇妙な取り合わせと思われそうだが、どちらも大分県中津市、英彦山と言う神山を基流とする山国川沿いにある「羅漢寺」と山国川近林の養分をたっぷり蓄えた豊前海で漁獲される「鱧」を紹介しよう。
 中津市耶馬溪町の「羅漢寺」と言えば、「五百羅漢」で有名であるが、今から1300年程前、日本で初めて建てられた。
 羅漢寺は大化元年(645)にインドの僧法道仙人が岩山の洞窟で修行したことから開基された。
※ 中央が羅漢寺山門。岸壁の合間に建てられた木造の建物が、何百年も存在している不思議。
※ 絵馬のかわりに「しゃもじ」の絵馬が打ち付けられている。

 建武4年(1337)京都建仁寺の昭覚禅師が中国天台山の僧建順とこの羅漢寺に来て、五百羅漢、十六羅漢など3770体の石仏を刻み開眠供養したと伝えられる。本堂は昭和18年に火災で焼失したが現本堂は昭和44年に再建された。総門や五百羅漢の入る無漏窟は昔のままの木造の建物で中には千体以上の羅漢像がそれぞれの姿勢で喜び・怒り・哀しみ・楽しみを面に座している。この石仏は室町時代、京都・建仁寺の昭禅師と建順とが刻み、延文5年(1360)11月1日の開眼と古文書に記載されている。石仏は必ず自分に似ているものがあると言われている。日本国内に五百羅漢は何拾箇所かあるが、昔この羅漢寺に来て石仏を参考にした羅漢もあると、案内人が話していた。
 しかし、ここの石仏は悲しい顔面が多く、時代を反映しているのか。
 羅漢寺の登り口に禅海堂がある。僧禅海が使ったと言う斧やのみ、やかん等が展示している。資料館へ行くにはリフトがあって、昭和44年(1969)の本堂の建築と合わせて完成した。羅漢寺の本堂まで徒歩なら急な坂道を20〜30分かかる所を、3分で羅漢寺の駅に到着し、徒歩で2分で本堂に行く事が出来る。自然の岩山が奥まった所に上手に造られた窟中寺、あの岩山に何百年も変らぬ継承と信仰は不思議と言うか見事と言うか。行ってみないとわからない不思議な何かがあるようだ。
 神社や寺院で祈願する時に使われる絵馬がここでは、「しゃもじ」である。願い事を書いて、クギで木の壁に打ち込む。何千か何万かの「しゃもじ」が所狭しと打たれている。見事である。

※ 耶馬溪の 奇岩が伝える 風景は 至る所に 天下の景観

※ 1300年 歴史は今も 羅漢寺の 語り継がれて 今も感動

※ つぐないに のみを片手に 30年 禅海和尚の 青の洞門

 大分県中津市と言えば、あの壱万円札福澤諭吉の里、中津城の話とか話題は尽きないが、最近特に食材で話に出て来るのは「鱧料理」である。
 私の故郷の宣伝も兼ねて中津市から詳しく説明しよう。
※ 耶馬溪には頼山陽も筆を揮ったと言う奇岩が沢山あり、紅葉の時期にはすごい人出になる。
※ 植物性プランクトンが多く含まれていると言う「山国川」。この川下が豊前海。今、海も川も山の木や森林が大事と言われている。

 国東半島の西北部に位置する中津市は合併して人口が86,000人になった。旧中津市に山国川の支流下毛群が加わり、面積は8倍になり、美しい耶馬溪も中津市になって総面積は山林が80%以上になった。そんな中津市だが、安土桃山時代、豊臣秀吉の懐刀と言われた黒田孝高は天正16年(1588)、中津に九州で初めての城を建てた。(余談だが、あの黒田節は福岡ではなく中津が発祥の地と言われている。)やがて福岡に転封後は慶長5年(1600)に細川忠興が入封し、城の大改修を行ったり城下町の整備を進めた。その後、寛永9年(1632)に小笠原氏が入封し居城とした頃には大手門前に京町・博多町などの呉服や織物の問屋が軒を連ね、60%が問屋だった。後に商業都市として栄えた。この小笠原初代藩主長次公は名君の誉れ高く神社仏閣を敬い、山国川より豊前平野に治水工事を施して豊かな実りをもたらした。今でも毎年盛大に行なわれる中津祇園を盛んにしたのは、延宝元年(1673年)二代目藩主小笠原長勝公からであると言う。徳川四代将軍家綱公の時代(これも余談だが、家綱公の時、江戸大火があって、江戸城が燃えた)に九州では博多祇園、小倉祇園、中津祇園を加えて九州三大祇園祭りと呼んだと言う。あのチキリンチキリンチキリンコンコンの音を聞くと胸が熱くなった。
 小笠原氏の時代は86年間続いたが、終わりに近づくにつれ藩主の遊蕩や悪政のために藩がつぶれかかり、次の藩主を命じられた奥平氏が入国する半年前の享保2年(1717)正月に、竹田の岡藩六代目藩主中川久忠は幕府の命を受け、中津城を奪い取って、奥平氏が入城した。明治2年(1869)までの約150年間中津市は奥平氏の時代が続いた。その間九州北部の拠点であった中津は鎖国であっても開港が許されていた長崎とつながりがあり、炭鉱が盛んになった明治には材木で隆盛を極め、その当時中津にも300人の芸者家が居たと言われている。
 中津には一流料亭が何軒もあった。そして今にその名残を継承している木造の料亭が、最近名高くなった「筑柴亭」である。この料亭にこの程東京よりバス2台で、「鱧料理」を食べに行った。
 この料亭を宣伝すると言うより、我が故郷の「鱧料理」を宣伝して、生まれ育った里に少しでも恩返しが出来ればと思った次第である。

※ 中津の改革(豊前の国)
  黒田氏 − 細川氏 − 小笠原氏   −  奥平氏
  (約12年) (約32年) (約86年)  (明治まで約150年)

※ 「筑柴亭」の和室。築100年木造建築。こんな部屋が何室かある。
※ 有名人の書いた屏風の前で挨拶する女将の「土生かおる」氏である。有名人の書や絵が数十点あり、部屋の雰囲気を都度変えると言う。

 「鱧料理」と言えば、だいたい関西であり、特に京都は昔から有名であった。何もあの山の中に鱧料理が盛んになったかと不思議に思う人も多いと思う。鱧と言う魚は一番長持ちのする魚であり、腐りにくいと言う。骨が多くて魚材では一番人気のない魚だった。京都には一流の職人が居て技術には事かかさない。あの多骨の魚を料理するのは簡単であったのだろう。
 だが鱧の本場は中津である。中津で水揚げされる上級品は中津からが一番多く京都に出荷されると言う。それだけ豊前海で漁獲される鱧は美味しい極上品であるのだ。
 今、JR九州等、鱧列車を企画して中津に来る。鱧の漁獲量、消費量共に中津が日本一になったらしい。
 江戸時代を代表する漢詩人、頼山陽も筆を揮ったと言われる景勝の耶馬溪、その紅葉の雫を集めて豊前海へと注ぐ山国川。引き潮に現れる美しい砂の干潟、50kmに及ぶ山の栄養分森の植物性プランクトンを含んだ水が山国川にそそぎ豊前海で育った鱧。この鱧と言う字は魚に豊と言う字を書く。栄養があって、大変美味しい魚でもあるのだ。
 豊の国と言われる大分。
 大分は、河豚、関鯵、関鯖、城下鰈、それにこの鱧が加わり、魚の豊の国である。

 一流の木造料亭で比較的安い料金。ちょっと東京からは遠いが、飛行機も多く日帰りも出来る。有名人もかなり来られると言うこの中津の「筑柴亭」一度いかがですか。

※ 鱧料理 今に伝える 
  筑柴亭 昔の面影 
  至る所に

※ 中津市の 伝統伝える
  鱧料理 築100年の 
  筑柴の館

 全国にはその土地に生れた美味しい食物が沢山ある。やはり本当に美味しいものはその土地その場所で食べてこそ、その本当の味が賞味出来る。やはり現地に行って食べてみよう。

平成22年9月26日 記


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