東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の72(新〃刀)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世



謹賀新年
新年、明けましておめでとうございます。
皆様には、本年も波瀾万丈でスリル満点な、生き甲斐のある年で
ござんす様、衷心より祈念申し上げて、スタートと致します。

 今年のNHKの大河ドラマでご存じの如く,徳川幕府は慶応三年の12月で終っており,
翌年(慶応四年→明治元年・1868)の正月の鳥羽・伏見の戦いでコテンパンに負け,15代将軍・徳川慶喜が大阪城に家来を置き去りにして敵前逃亡,船で江戸まで逃げ帰った時に完全に終了・ENDとなり,天皇の時代としての王政復古で「日本の夜明け」が始まります。

 刀剣の世界では,それより半世紀(50年)早く時代の先取りをしており,刀はすべからく鎌倉・南北朝の古えの時代に範を求めるべしとの運動が提起され,文化文政期(1800〜)の復古刀(新〃刀)の時代がスタートを致す訳でございやす。

刀 銘 水心子正秀 出 閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜

 刀 銘 水心子正秀 長 69.2cm(二尺三寸) 反り1.8cm(六分)

 新〃刀の第一人者は,川部儀八郎正秀(後に水心子正秀と改名)と申す出羽国(山形)赤湯の秋元家の家臣でご猿。正秀は師を持たずと言うが,武州下原鍛冶(八王子)の吉英に習ったと伝えられている。彼の作刀は初期の頃は沸え出来の乱れ刃であるが,寛政期(1790)の頃は津田助広写しの涛爛刃を焼き,現在はこの時代の作刀が一番高く評価されている。(上図)
 鍛刀に励む傍ら,「刀剣実用論」「刀剣試用論」「剣工秘伝志」「鍛錬玉函」「刀剣弁疑」等、多くの刀剣書を著し,復古刀の啓蒙に尽力した。彼の日本刀に対する理論は時代の要求と合致し多数の賛同を得て,全国から名門鍛冶やその後継者等の多くが門を叩きに参集した。この事が,この時期の日本刀工の全てが水心子正秀の弟子ダワ!,と云われる所以でご猿。
 次に新〃刀の目ぼしい刀工の作刀をご紹介して見ましょう。

刀 荘司筑前大掾大慶藤直胤(花押) 文政五年仲春(1822)
  「大慶直胤」正秀と同じく山形の産,水心子の一番弟子となり,復古刀の実践者であり技量は各伝法を会得し実に上手い,時に師匠を凌駕する程である。この作は直胤の相州伝の傑作でご猿。  
刀 作陽士細川正義(刻印) 天保十一年庚子仲春  (附)葵車紋散黒漆皺革包鞘太刀拵

 「細川正義」下野鹿沼の産,初代が江戸に出て水心子正秀に師事。長男が二代を継ぎ主税守秀。文化14年(1811) に作州津山藩に召抱られ,文政2年(1819)正義と改名。天保12年に深川海辺大工町の下屋敷(江東区白河三丁目)に居住。作風,相州伝は身幅広く板目肌鮮明に大乱れを焼く。備前伝の作は腰反りで先細りの剣形,木目肌の良く煉れた地鉄に,匂い出来の丁子乱れを焼く。

薙刀 於長門国正行製 天保十四年二月日(1839)
刀 源正行 天保十五年八月日(清麿大鑑所載)

 「薙刀・源正行」これが,かの有名な源清麿の若打ちの薙刀でご猿。山浦清麿は42才で自尽をしているので作品は非常に少なく,因って価格もベラボウに高く常にトップ・テンの常連でご猿。但し偽物が多く,初心者は手を出さぬ方がヨロシおます。

○ 刀 銘 源清麿 弘化丁未年八月日
  刀 銘 源 清麿 長70.3cm(二尺三寸二分)反り 1.8cm(六分) 静嘉堂文庫蔵 重要美術品。
 幕末の巨匠,清麿は信州の郷士の出で初め上田藩の浜部寿隆に学ぶが,江戸に出て志津の作風を追って独自の作風を確立させ,地刃の良さは同時期の他工の追従を許さぬ気魄がある。新撰組の近藤勇は池田屋に切り込んだ際の得物は虎徹と信じていたが実は清麿だった,と云われています。
 天保10年窪田清音の計いで一振り三両で,出来上がり次第加入者に渡す事として,武器講を始めたが「武器講一百之一」を作っただけで長州にトンズラ。後に故郷を経て江戸に戻り,清音に詫びを入れ,四ッ谷伊賀町に住み鍛刀を続けたが心身を病み,嘉永七年(1854)に切腹して果てる。この作は同作中でも特に地鉄が良く,黒田清隆の佩刀で後に岩崎小弥太が愛蔵した刀でご猿。弟子には,栗原信秀,山浦真雄,鈴木正雄,斉藤清人,と錚々たる巨匠が輩出をしております。

刀 栗原筑前守信秀 慶応三年八月日(栗原信秀の研究所蔵)
刀 銘 栗原筑前守信秀  長 77.3cm(二尺五寸五分) 
信秀は越後国三条の産,初めは京都に出て鏡職人の弟子となり鉄の鍛錬と彫りを習い,その後に清麿に入門したと云う。幕府の長州征伐に従軍し,かなりの数の鍛刀をして稼いでおり,幕府の崩壊後は膨大な新政府軍の注文を受け盛んに活躍している。清麿の弟子の中では最古参である。

刀 銘 越前守信秀彫同作 慶応元年(1868)八月日 刃長71.7cm(二尺二寸) 反り1.2cm(四分)。
清麿の弟子の中で最も上手なのが信秀である。特に刀身彫りは独創的な構図で濃密で緻密である。この作品は師風を良く伝えた作品で,彼の特色をよく示した玉追龍と素剣の彫物が見事てある。

  刀 銘 左文字三拾九代孫筑前住左行秀 嘉永二年(1849)二月吉日於土佐国造之。
    刃 長 82.0cm(二尺五寸四分) 反り 2.25cm(七分五厘)。
 左行秀は福岡の産で本名は豊永久兵衛と申し,細川正義の弟子の弟子で,号を東虎と名乗る。行秀の作風は,小板目の良く詰んだ物と柾目の詰んだ物があり,刃文も広直刃と互の目刃に太い足の入った2様な物があり,地刃に沸が厚く附くのが特色である。帽子の延びた身幅の広い造り込みは新〃刀様式の物である。弘化三年(1846)に土佐藩工を拝命し,江戸に出て深川砂村の藩邸(現・スポーツ会館)で作刀をしたが,板垣退助と不和になり帰郷をした。この作は銘文が面白い。
刀 於東都長寿斎綱俊精鍛造之 行年六十五歳 文久二壬戊年八月吉日

刀 銘 於東都長運斎綱俊精鍛造之 二尺三寸七分 文久二(1862)壬戌年八月吉日 行年65才。
綱俊は水心子正秀の孫弟子で山形米沢の産であり,小板目肌が良く詰んだ鍛えに華やかな丁子の作品が多い。これが甥の石堂運寿是一(7代)に伝えられ,是一の丁子刃は沸出来となるのでご猿。この綱俊系より出た名工に固山宗次が居て備前伝を伝え一世を風靡している。

 水心子系では清水久義の弟子で相州伝の左行秀,備前伝は加藤国秀の一門で米沢出身の長運斎綱俊・加藤綱英その流れの固山宗次,高橋長信,石堂運寿是一,播州の手柄山正繁,水戸の市毛徳隣,勝村徳勝,会津の十一代兼定,等が挙げられるが,特出すべきは幕末の鍛冶で明治九年の廃刀令まで作刀を続け,明治三十九年に帝室技芸員になった月山貞一と宮本包則である。彼らが居たので日本刀の作刀の技術は現代まで伝えられたのである。

刀 銘 固山宗次作 天保九年四月日 刃 長 二尺三寸六分半(67cm) 反り 六分(1.8cm)。
 宗次の天保九年(1838)の初期作,この時代の作に傑出した作が多く,一文字風の華麗な丁子刃を焼き地刃が冴えて同工中の傑作である。晩年には応永備前風の互の目丁子に作風は変化して行く。彼は奥州白河の出身で米沢の加藤綱英の門人であるが,特に古作の写し物が上手く得意であり,小龍景光や蜻蛉切りの槍などもある。一時,伊勢の桑名で作刀をしていて,これを桑名打と言う。又,山田浅右衛門の裁断銘も多く見られる。弘化二年に備前介を受領し明治初年まで作刀をする。

刀 備前介藤原宗次 慶応三年五月日 肩車土壇拂山田源蔵
刀 銘 備前介宗次 作之 嘉永三年八月日 稲妻雷五郎(横綱)
短刀 東京住固山宗次 明治庚午春奉納鍛此
具視会復古之運黎賞典 松尾子典有力此刀似答其志
刀 銘 大阪住月山貞一精錬之 刃 長 71.2cm(二尺三寸五分半) 反り 16.1cm
    (五分半)
     明治二七年十二月日 彫物同作         東京国立博物館蔵。
 月山弥五郎貞一は近江の出身で,奥州の月山鍛治の末裔と称する月山貞吉の養子となり,その技を学んだ。作風は相州伝,備前伝大和伝,志津伝,山城伝,と綾杉肌の月山伝など各伝に天賦の才を見せている。
刀 銘 明治三十一年十一月日 日本美術協会大阪支会技芸員 
月山貞一 依日本美術協会大阪支会嘱謹鍛之

刀 銘 明治三十一年十一月日 刃 長 70.7cm (二尺三寸三分) 反り 1.4cm
    (四分六厘)
    日本美術協会大阪支会技芸員 月山貞一
 明治九年(1876・134年前)の廃刀令により,注文が激減するなかを転職せずに鍛冶を行い,大正四年(1915)に84才で没するまで活躍をした。
 この作品は板目肌が立って地景が入り,乱れ刃に砂流しの掛ったもので,樋の中の表に玉追龍を裏に素剣の浮彫りがある。

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