東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の74(郷土刀)
(阿波〜徳島〜海部刀)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 さぁ〜てと,前回迄で日本刀に関しては蕨手等の上古刀より,平安・鎌倉(前・中・後)・南北朝・室町(前・中・後)の古刀から安土・桃山の新古境,江戸新刀,文化文政の新〃刀,明治・大正・昭和を経て現代迄の大体の経緯を申し上げて参りましたので,ボツ〃〃ENDダンべ〜と思われるでしょうが,どっこい!,もう少しお付合いの程をお願い致します。




 


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西








 これが,四国・徳島の地形図であり,下図が郷土刀である「海部刀」に関する関係地です。
所在地,阿波国海部郡海部郷,又は那賀郡海部郷,現在の海部郡海南町・海部町・宍喰町。
この地は阿波と土佐との国境で,南北朝期から海部武士団と鍛治が栄えていた所でご猿。阿波刀の発祥は鎌倉末期であり,恐らくは中央とは直結しない在地の中少の土豪や地侍の需要で有ったと思われる。確認出来る最も古い刀は応永前後と見える氏吉の太刀であるが,これは,古来云われている薩摩の「波平流」が納得できる作行でご猿。

海部氏吉の碑
(徳島県海部郡海南町笹無谷。
昭和14年撮影)

 郷土刀とは生まれ育った故郷で,トンテンカン?トンチンカンと造られた名刀や珍刀の事で,一般的には地域限定バージョンで決して全国的にメジャーな刀工とは申せません。併し,これがその時代の要請とピッタリと合致していて,よくその存在感を示しています。そこで,深川木場の材木問屋のご先祖の共通した郷土刀とはナンダベー?となりまして,暫し沈思黙考の後に閃いたのが海部刀でご猿。これには多少の異論が有るかと思いますが明治・大正・昭和・に於ける木場のダンナ(旦那)の故郷は大半が徳島。何故ダ!と思われる方は先日お届け致しました,問屋組合の労作「江戸・東京・百年史」に目を通して頂ければ,お解りになると思いますが,要は明治の中頃に大阪の鈴木商店から生じた金融恐慌の波が全国に及び,旧来の江戸を引きずって来た各種の問屋は軒並み倒産し,深川の材木問屋も大元の徳島の藍問屋の「久次米」が株主で設立発起人であった第七銀行が倒産してしまった,お陰で深川の木材部の支配人の武市森太郎氏が独立が出来た,これより徳島の天下となる。因って戦前の木場は石を投げると徳島に当る,と云われたほど徳島県の出身者が多かった。
  特に当時の材木屋の本流であった「羽柄材問屋」にはその感が強く,そのDNAは今でも脈〃と繋がっております,その理由は又の機会に申し上げす。ナンデダトオモイマスカ?。

   
短刀 銘 阿州住人氏次作
 この様な切刃造りのスタイルの短刀や脇差しを陣鉈や海部の山刀,海部包丁と呼びます,竹や木を切るのに適していて,大変に良く切れましたので足軽の短刀や脇差として大いに重宝がられました。    
脇差 銘 阿州海部住氏吉(刀身銘)

 差裏を切刃造りにして,鎬地に銘を彫るという右切刃造りの様式は海部刀だけの独特なスタイルで,本来ならば銘は中心(柄下)に切るのだが,鎬地に切るのは全国的にもござらん。海戦が主力の倭寇は半天一衣とフンドシ一本の身軽が身上,これが海部の短刀や脇差しにピッタリコン,これが「海賊刀」と呼ばれる所以でご猿。

 瀬戸内海は天慶(940)の昔,関東の平将門に触発されて挙兵した藤原純友の乱が示す如く,海賊が跳梁跋扈をする世界であり,特にゴダイゴ様の政権交代のルール違反のお陰で,南北朝のチャンバラが65年の長きに亘り続き,この為に海の民も他力本願は諦めまして,自力再生の一環として「倭寇」が自然に発生する事となり,日本海や東南・支那海で防備が脆弱で財力が裕福な国に大変な迷惑が生じました。その主力が九州の松浦党や瀬戸内海の村上水軍ですが海部よりもかなり参加しております。その際に一番効果を発揮したのが,他国には無い独特な強靭で軽い実戦的な「海部刀」でございました。
 海部刀・海部山刀・海部包丁は徳島の歴代の藩主が,しばしば大名間の贈答に用いており,その場合は独特な地方色の豊かな下図の「樺巻き鞘」の様な立派な拵が付けられました。又,海部では作刀に加え外装も「家伝」として伝えられていたとの事でおじゃる。

阿波藩蜂須賀家より某大名家に贈られた
藤の糸巻太刀拵。

 九州から青森迄(沖縄は番外)の日本各地に居た大少名は300諸侯と云われておりますが,その大半が自前の鍛冶を抱えていましたので,その実数は?でして余程の名刀か珍刀でも無ければその名前はとても現代迄は伝って参りません。特色としてはどちら様の郷土刀も,兎にかく良く切れて安い,と言うのが共通項なのですが,海部刀の「海賊様ご用達」とか殿様「贈呈」用と云う刀も珍しい物です。併し世の中には無い訳ではございませんでして,水軍用は薩摩の「波平鍛冶」,贈刀は肥前の「忠吉系の鍛冶」が本来だべーと言えば言えます。

太 刀 (表)阿州住氏久 (裏)三好左近将監所持也甲刀(寅)八月日
 刃長 71cm(二尺三寸四分三厘) 反り1.3cm(四分三厘)鎬造り庵棟,中切先延びる,板目流れて柾がかり,良く詰み,地沸細かに厚く付く,鎬寄りと刃寄りに幽かに白気立つ。細直刃。僅かに互の目乱れ,匂口やや締まって冴え刃中は明るい,帽子は表裏共直に小丸。この太刀は地刃共に冴えた優品。裏年期の甲寅は天文二三年(1554)。数少ない氏久の遺作。
 本来,海部刀はその使用目的の為,短刀か脇差が多いのですが,太刀は珍しい部類です。

脇 差 銘 応佐藤為成子需安喜左寿造 文化丁卯(1807)二月也 正阿弥孫平田長美彫之 
海部刀も新〃刀期になると,従来の様式より脱皮をして垢抜けたスタイルに変化してます。

脇 差 銘 (表)阿波御所正春 (裏)平成元年(1989)夏
 長さ 38.3cm(一尺六分四厘) 反り0.6cm(二分)  平造り,庵棟,身幅極めて広い。板目に流れ肌が混じり物打に映り立つ,刃文は逆丁子乱れに飛焼交る,帽子は裏突き上げ。
 南北朝期の備中青江の逆丁子乱れを狙った作品,第三回新作展入賞・佳作。

 

短 刀 銘 (表)正次 (裏)昭和六十三年(1988)二月日
 長さ 22.6cm(七寸四分六厘) 反り 0.4cm(一分三厘)。
 小板目詰み,刃文は匂出来の互の目乱れで足が入る。帽子は乱れ込んで先は尖って返る。
 おそらく造り(本科は駿河の島田助宗) の短刀で,この刀匠の得意とする作柄である。 

 

※大和(奈良)の金房や肥後の同田貫,武州八王子の下原鍛冶等も郷土刀の範疇?ですので,徐々に取上げて参りますが,皆様の中で推薦すべき刀鍛冶がいれば取上げて見ますので、ぜひ問屋組合の事務局迄ご一報を頂ければ幸甚の極みでございます。ヨロシクどうぞ!。


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