東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の77
(郷土刀・紀州・新刀・パートII)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 紀州には古刀期に於いては、簀戸鍛冶や天狗鍛冶の如くユニークな刀工が居りましたが、天下の名匠と申せる刀匠は皆無でした。併し、新刀期(1600年・関ヶ原以降)になりますと、ガラッと一変をして「南紀重国」と云う我国でも五指に入る名匠が移住をして参ります。
刀 銘 和州手掻住重国於駿府造之 刃長70.9cm(二尺三寸四分) 反り 1.8cm(六分)。この作は、重国の駿府打で多少磨上であるが堂々とした姿に、相州上工に迫る格調の高い沸出来の作風を示している。           重要美術品にて候。
 刀 銘 駿州住重国造之(金象嵌・一夜業風起 吹倒二仏堂) 刃長 74.15cm(二尺四寸四分)。鎬造、庵棟高く、身幅尋常で重ね厚く、刃肉が豊かに付く中切先の延びた元和期の刀姿。板目に杢が交り流れごころで地沸良く付き地景が絡む、青白く冴えた強い鉄で鎬地は柾目。南紀重国の駿府打は何れも傑出しているが、之は其の中でも江写しとして有名な刀でご猿。尚、金象嵌の意味は、斬味の優れたことを称えたものである。昭和17年の重要美術品指定。
    刀 銘 於南紀重国造之 刃 長 73cm(二尺四寸一分) 反り 2.4cm(八分) 重要文化財。鎬造、庵棟、身幅広くやや先反り付、小板目肌詰んで澄む。のたれて互目交り小足入り、沸よく付き匂口は冴えて砂流し掛る。帽子は小丸、表裏に棒樋、茎は生ぶ、勝手下がり。幕末に紀州家より徳川本家に献上され、十五代将軍徳川慶喜が好んで帯びた佩刀でご猿。

 「重国」は大和(奈良)の手掻鍛冶(東大寺の手掻門前に居住の為この名が付いた)の末裔で大和伝と相州伝の名手の為、家康に気に入られ抱工となる。家康の死後元和五年(1620)に十男の頼宣が駿河の国より西の守りの要である和歌山城に55万石で移ると、南紀重国も頼宣と共に入城し作刀に励み、重国の名称は11代を数え明治三年の廃刀令迄続いています。重国の後代(二代金助以降)は手掻派の本流と云う事にて、「文殊」の冠称を付けて居ります。
脇差し 銘 於紀州文珠重国造之 刃長 44cm(一尺四寸五分) 反り 7.8cm(二分六厘)。鎬造、庵棟、ともに高い、身幅尋常で中切先、小板目よく詰み地沸付き流れ肌、鎬地柾目。
 二代の寛永頃の文珠金助の晩年作で、刃文は二代の重国としての典型作である。

本来、手掻(テンガイ→デガイ)は輾磑と書き碾臼の事で、その昔、高麗から献上された瑪瑙の輾磑が、この門の近くの厨屋に保管されていたので、これが名前の由来との事でござんす。古書にも手飼、天蓋、天掻、手階、天戒、転害、手貝、等と書かれており、以前は東西の手貝町がありましたが、現在は東手貝町を手貝町とし、西手貝町を東包永町と西包永町に分けています。これは大和伝の巨匠、手掻平三郎包永の鍛刀地と言われた場所(東包永町73)より多量の鉄宰が発掘されたので伝承が正確だと認められ、町名が変更された次第でご猿。

 この町名の起りとなりました包永の名刀を下記に掲げて置きますので確とご覧下されい。
太 刀 銘 包永 刃長 78cm(二尺四寸一分) 反り2.58cm(八分五厘) 静嘉堂文庫蔵 国宝。「包永」は大和五派(手掻・尻懸・保昌・千手院・當麻)の手掻派の祖で天蓋平三郎と称しており、鎬が高く、鎬幅が広く、直刃と柾目肌に豊かに沸えづき、砂流し、掃掛けの刃中の変化が切先に向い働く所が見所となり、堅実さが目立つ造込みが大和伝の特色を良く伝えている。七百余年の時代を感じさせぬ華やかで健全な地刃は大和物を代表する名品中の名品でご猿。
粉河寺大門 この大門の右奥が鍛冶場跡
刀 銘 備中守橘康広 (菊 紋) 刃 長 69.6cm(二尺三寸) 反り 1.9cm(六分三厘)鎬造、庵棟低く、重ねは薄目で中切先が延び優しい寛文新刀スタイル、地鉄は板目に杢目交り地沸が付き地景も絡み乱映りが鮮明に立つ、匂出来の丁子で足・葉入り明るく冴える。
 寛文の姿を残し、地刃がゆったりした初代の備中守康広の作で健全な出来の優品でご猿。

 備前伝の紀州石堂の橘康広も元和五年に和歌山藩に抱えられて藩工にはなりましたが、康広以外の石堂鍛冶達のその後は大阪や京都に散って行き、その名称はトント見なくなり、紀州石堂と云う鍛冶集団は僅か十年余りで消滅しています。以降は移住先の地名を冠して大阪、京、江戸、の石堂の名前で呼ばれていますが、不明確な部分が多いのが目立ちます。
 又、重国刀の彫物は見事な物が多く、錦上花を添えているが、これ等は池田権助義照の作と言われて居る。特に大振りの龍の彫りを得意としているが、師伝が明らかではない為、相州の大進坊に倣ったとの説がある。大胆な図案と力強い彫口は桃山を代表する彫でご猿。
脇 差 銘 大和州住人九郎三郎重国 羽掃 為都築久太夫氏勝作之  ( 茎 棟 )
駿河州後於紀伊州明光山作之 天和八年戌八月吉日 鑿物天下一池田権助義照
刃長 41.51cm(一尺三寸七分) 反り12.1cm(四分) 平造、三っ棟 身幅は広く、重ねは厚い。先反り付きふくら枯れる。板目に杢が交り、肌は流れ柾掛り先は焼巾が広く金筋かかる。彫物が実に見事である。図案の巧みさと彫の迫力は流石で、桃山期の刀身彫を代表する。彫りに目を奪われるが、地刃の良さは大和古作、又は初期の相州伝を思わせる秀作なり。

※ 過日、平成21年7月号(通巻707号)に掲載の、坂本竜馬の佩刀及び所持刀に付いて、その出典は?、との問い合せを頂きましたので遅ればせ乍、お答え申し上げます。

参考文献
『日本刀大鑑』、月刊『刀剣美術』、(財)日本美術刀剣保存協会発行。
福永酔剣著『日本刀大百科事典』雄山閣 他、各刀剣商の発行する月刊誌、及び、
「鑑定会」での風の噂。これらが渾然一体となって掲載文のエッセンスとなる訳でご猿。

 尚、これにて「紀伊国」(和歌山)の郷土刀は終了し、次回は駿河(静岡)の巻きの予定です。何か注文が有りましたら、遠慮なく組合事務局の月報担当者まで、ドウゾ〜〜。
板目紋鐔 銘 算経(花押)
手長猿図鐔 銘 淡水子算経(印)

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2010