東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の78
(紋にて候)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 今回の「紋」とはテレビでお馴染みの水戸のご老公に付き従う、助さん・挌さんが、「この紋所が目に入らぬか」と掲げると悪代官が瞬時に這いつくばって頭を下げる印籠の紋と同じデザインのマークの事ですが、その紋が時として刀の柄の下から現れる事が御座いますので、今回はその「刀の紋」についての説明を申し上げます。
 紋と申せば我国には天皇家の十六花弁の「菊紋」から(財)日本サッカー協会(JFA)の三本足の八咫烏のマーク(商標)迄、多数の紋がございます。各家のルーツも紋を辿って遡及すればかなりの遠祖まで到達をする事が出来ます。普通、刀に刻まれる紋とは刀の柄の下に彫られる刀匠自身の家紋の事で、昔はかなりの価値が付随しておりましたが、明治維新以後は世の移り変わりと共にこの紋が変質をして来ておりますので、その辺の事情を少し申し上げて、参考に供したいと存じます。

                    記

イ 現存する皇室の菊紋は16葉か24葉になっていて、前者は小型で後者は大型、
  しかし、古剣書には八葉の紋や16葉の葉菊を掲げている時もあります。
ロ 室町後期には、関の信濃守兼定が菊または枝菊を切ると云うが遺作には接
  しない。 
ハ その子供の和泉守兼定には、伊勢山田打の刀に十六葉の菊を切った物が現
  存する。
これ迄は古刀なれど、新刀期になると菊紋を切る刀工は下図の如くかなりの数に
上る。
(1) 八葉 駿州島田の島田小十郎には八葉の菊紋に「一」の字を切り添えた打刀
   がある。 
(2) 九葉 島田の豊後守助宗、島田広助、(島田鍛治の得意先は甲州・武田家臣
   が多い)。  
(3) 十六葉 A、 紋の中心が単純に○となっているものに、備中守康広、伊豆守
   金道、越前守信吉、越前守宗弘、伊勢大丞綱広、山城守国清、播磨守忠国
   等がいる。
(4) B、中心の○の中に、もう一つ小さいテン・を入れた物。和泉守国貞(二代)。
(5) 中心の○の中を格子状にした物。大阪新刀の代表者、超一流、名人の井上
   真改。
(6) 裏菊。裏面から菊花を見て、その中心の○の中に☆形などを加えた鍛冶と
   しては、伊賀守金道、和泉守国虎、越前守宗弘の関西系がいる。
(7) 紋の周囲が風車風になっている物として。丹波守吉道、越中守正俊、和泉
   守金道、近江守久道、若狭守道辰、加賀介祐永の美濃大道の弟子の関西勢
   が大勢いる。 
(8) 八重菊 周囲が二重になっている物、大覚寺門跡から日向守盛久に与えた
   許状も十六葉の八重菊が描かれているが、盛久が刀銘に切っているのも一
   重菊である。
(9) 菊紋に「一」の字を添えた物で、島田助宗は八葉、島田広助は九葉、丹波
   守兼道、越前守信吉、出羽守光平、摂津守永重、山城守国清、加賀介祐永
   は十六葉なり。
(10) 枝菊。菊紋に枝と葉を添えた物。近江守久道、大和守安次等。
(11) 菊水。菊花の下に流水を彫った物が湊川神社にあり、楠木正成の短刀は
   全て菊水紋。
(12) 十七葉。越後守清修にこの例が有ると云われているが未見。
(13) 二十四葉。九条家伝来の菊御作の太刀に大型の二十四葉の菊ご猿。
 尚、一般の鍛冶が菊紋を許されるのは、朝廷に自作の刀(+マネー)を献上した功の見返りです。当時の公家(朝廷)は相当ビンボーでした、刀鍛冶の中で献上刀の取扱が出来たのは、朝廷より徳川家康の推挙により「日本鍛冶惣匠」の認可を与えられていた「伊賀守金道」だけで、これにも大阪の陣における徳川家との武器調達の論功の裏話が付随しております。併し、今回は紙面のワクが無くなりそうですので次回に致します。

 天皇家の紋である菊も本来は外来植物で、唐・天竺から薬用として渡来して来たのが、仁徳天皇73年頃(AD・385)と言われておりますが、万葉集を始めとした日本の古歌には菊を詠った歌が一首も無く、因って現在はこの説は否定されております。延暦16年(797)に桓武天皇が詠んだ「菊乃波奈」の御製がござんすので、この辺りに渡来したと考えられております。「和名」はカワラヨモギやカワラオハギなどと呼ばれていた様で、平安貴族も「菊花」を花の中の貴種として大いに称え愛好をして居たようでござんす。
 その為、菊花を図案化して、衣服や調度のデザインに多用するようになり、朝廷でも桓武天皇に続き平城・嵯峨の両天皇も菊を好まれ、因って菊紋が朝廷の紋になったのは、嵯峨天皇(810〜823)の時からとも云われています。これに対し宇多天皇も「菊合せ」の発案者でもありましたので、「菊紋」は宇多天皇からの発祥と云う説もございます。
 併し、両説には菊紋を実際に使用したとの確証は無く、むしろ確実に史実にあるのは「承久の乱」(1221)の当事者であり乱を起こしはしたが、賛同する武家は全く0で
その企ては瞬時に破れ捕えられ、隠岐に流された「後鳥羽上皇」の廷臣、葉室中納言の日記「葉黄記」に、上皇の車やこし輿には八葉の「菊紋」を用い、太刀も自ら鍛刀をして、その太刀に菊紋を付け、取巻きの公家や北面・西面の武士に授けたと云う記載もあり、今もこの太刀は少なからず残っており、大半が国の重要文化財に指定されていますがこれを称して「菊一文字」と申し、好事家の間では大変に珍重されております。
太 刀 無 銘 菊御作 刃長76.1cm(二尺五寸一分)反り3.3cm(一寸一分)御 物。
鎬造、庵棟、腰反り高く踏張り付、小峰、生茎、短く浅い栗尻、先細る。鑢目勝手下り、目釘孔二。棒樋を表裏の茎近くまで掻き流す。小板目肌詰、鎬近く映立つ、帽子乱込む。「刀装形状」(下の文字がスラ〃〃と読めて、意味が判れば、刀剣検定の初段合格にて候)。柄=黒塗鮫着、藍革巻、目貫=金枝菊文容彫、頭=角、縁=銀地に藻の家紋と四分一象嵌、鍔=丸形鉄地家紋尽透彫真鍮象嵌、鞘=黒漆塗両櫃、小柄・笄=赤銅魚子地桐紋高彫。
 上杉家重代、景勝秘蔵の一口、昭和天皇が奥羽巡幸の時に米沢で献上された太刀でご猿。

 「承久記」に「御所焼と言ふ聞ゆる太刀を帯たり。御所焼とは次家、次延に作らせて、御手づから焼せ給う。公家、殿上人、北面・西面の輩、御気色好程の者、賜い帯けり」と有る様に後鳥羽院の作で、毎月の月番の鍛冶を定め、作刀の相手をさせたとの伝承が有る。向う鍛冶は、粟田口・備前一文字・備中青江の各派からなり、為に時節により作風が異なる。
 下に菊紋を刻んでいるが、現存する紋の殆どが砥ぎ減って花弁の先だけが残る物が多く、この太刀も佩表に菊の毛彫の痕跡が僅かに残る。

 因って、この事を見ても皇室が菊紋を使用されたのは「後羽鳥院」の時代からであり、それまで使用していた「桐紋」とこれ以降は併用して使用される事が多くなって行った。 
 因みに桐紋とは、桐の葉三枚の上に花芯三本を出して図案化した紋のことで、中国においての桐は英明な天子が現れた時に生える喜木とされていたので、我国も平安時代の近衛天皇(1142)の服には桐紋が描かれており、足利尊氏が後醍醐天皇から拝領すると、武家の使用する武具等に桐紋の使用が急に増え始めた。それは足利尊氏が配下に桐紋を次々に与えたからと云われていますが、多分、その通りでござんしょう。

 織田信長の差料として京都の本能寺に伝来している打刀の鍔にも桐紋が附いていた。豊臣秀吉は朝廷から桐紋を拝領すると「太閤桐」としてあらゆる場合にこれを活用した。太閤桐には広義と狭義の二種類があり、広義は秀吉に関係のある衣服・調度・建築の総称としての種類は10種類以上にものぼり、狭義でも二種類以上がありました。その他に世間も違法コピーを大量に量産しバラ撒きましたので、秀吉もこれには堪らずご法度・厳禁と致しましたが、これらの菊紋、桐紋が、次回のテーマである「葵紋」を巻き込んで、幕末&明治における黎明期の日本に与えた影響は、て〜へんでごさんした。

…では、また、お達者で…
古甲胄師 花筏透
応仁・文明前後 室町中期 15世紀後半
縦84.0 横83.0 厚さ 耳3.5切羽台2.2 打返耳
 筏に梅と桜の花をそえた、花筏を透かしている。意匠が細やかなので、時代が下がるようにみえるが、なかなか厳しく強い。室町中期であろう。古刀匠と違って、古甲胄師は室町中期に入ると、地透鐔の大きさに近い優れたものを作っている。そして、大ぶりのものには無造作なものが多い。
正阿弥 比翼の鷺透
応仁・文明前後 室町中期 15世紀後半
縦76.1 横77.2 厚さ 耳4.7切羽台4.0 角耳
 比翼には鶴がふさわしいが、鷺を透かしている。雌雄の阿 の姿になんとなく動きが感じられる。さきの茄子透・瓢 透よりやや年代は下がる。

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