東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の79
(紋・葵の落日)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

徳川家康の少年期 徳川家の初期 五代将軍時代
     
     
 

 幕末に至り、長らく惰眠を貪っていた我国も黒船来航によるドーンの音で覚醒をしたが、今度は連日連夜の尊皇攘夷の大騒ぎ、何を血迷ったのか長州藩は薩摩藩の守備範囲である。「菊紋」棚引く蛤御門(御所)に向け大筒をドーン〜と打ち放し、テンヤワンヤの大騒ぎ、今度は長州が逆賊となり、久坂玄瑞率いる長州の過激派は、薩摩、会津、幕府軍に完敗。

 この結果「第一次・長州征伐」となり、幕府は大号令を掛け諸藩を率いて、遠く山口まで遠征をして戦に臨んだ。局地戦は連戦連敗なれど〜長州と各藩兵との戦意と武器の差が大。
 しかし結果は幕府方のVで停戦となる。結局この戦がボディブローとなり幕府も各藩も全ての面で疲労困憊をして、次に起る第二次征長の「二の矢」がつ接げなくなり、幕府崩壊の坂道を辿る事になって行く。

 間の悪い時には悪いもので長州も、前年に下関沖を航行中の英米仏蘭艦に向けてドーン。この事件の処理が未解決だと、今度は四ケ国の陸戦隊に乗り込まれ、コテンパンにやられて陣地も砲台も木っ端微塵に吹っ飛んで、福原・国司・益田の三家老がハラキリをして降伏。藩主・毛利敬親は家臣が具申をすると、何事も「そうせい」との仰せなので、付いた渾名が「そうせい公」。父子は朝廷と幕府に最大限の謝罪をしてどうにか腹切りはセ〜フとなった。

 問題はこの間にあれほど犬猿の仲であった薩摩と長州とが「坂本龍馬」が接着剤となってくっ付いてしまった事である。薩摩は西郷隆盛、長州は桂小五郎の取り纏めと云われる。ゼニは有るが信用の出来無い長州と、その逆の薩摩が倒幕という大名分での野合でご猿。

 翌、慶応元年(1865)幕府は長州に罰として十万石の削封を命じるが、長州は聞き入れず、この為またもや戦端が開かれた。これが「第二次長州征伐」である。結局これが、幕府の命取りとなった。なんでやねん? この間に将軍・家茂(21)と幕府に好意的と云われた、孝明天皇(36)が続けて原因不明の突然死! 〜毒殺?〜を遂げられた。両名共、年も若く平素は極めて健康であり、特に「朕不明と雖も臣下の申分にのみ惑溺する者には否ず」と大変な自信を持たれて、事に当っておられた天皇は「天下の乱を好む輩」には目の上の瘤であった事は事実、日誌から死因は毒物で有った事も推測されるが、何故か不問となる。

 慶応三年(1867)明治天皇が即位。早速、岩倉具視は宮廷の方針を倒幕に誘導を始める。一方、家茂の後を継いだ慶喜は土佐の山内豊信の策を入れて、大政奉還を朝廷に奏上する。恰も、同日の10月14日に朝廷よりも薩摩・長州の両藩に倒幕の密勅が下ったのでご猿。翌日、戊辰戦争開戦。大阪城から幕府軍が出撃、伏見街道北上中の隊列のド真中に官軍の砲弾がマグレ当りで着弾、これで幕府軍は大混乱となり敗軍。慶喜も船で江戸へ逃げ帰る。
 この後、各地でドンパチが続くが、一度傾いた大船を元に戻すのは至難のワザでご猿。因ってこれにて、葵は枯れ、菊が栄え、江戸幕府265年の幕引きとなって行くのでご猿。

〜大分、前説が長くなりましたが、これより本題に戻ります。〜
 皆さんは、美術品?や古き骨董らしき物に、葵の紋が付いていたらどう思われますか。日本の紋の種類は数限り無くありまして、中には奇妙奇天烈な紋もございますが、中でもビック・スリーが、菊・桐・葵で御座います。「菊紋」はご存じの通り、皇室専用紋ですので巷では余り見かけません。当時はこれらの紋を勝手に使うと、打首・獄門・磔でしょう。
 「桐紋」は意外に多くあります。豊臣秀吉が太閤になり天皇より許可されてから増えた。徳川に政権がチェンジしてからは、名家の家紋と合わせて標記されることが多くなった。代表的なのは、七五(太閤桐)や五三の桐紋なれど、現存する本物は意外と少ない筈でご猿。

徳川所縁の刀工の作刀に彫った葵紋。…これ等の刀は刀匠にとっては最上作にて候。

初代康継 初代康継 主水正正清
二代康継(日御碕神社) 七代康継
虎徹興里 石堂是一 幕府から下腸された葵紋の見本

 葵紋は明治になると爆発的に増えた。世の中、文明開化である。ザンキリ頭とブーツとギュウ(牛)鍋である。もう江戸は古い、古い物は全て廃棄、刀もピーストルに変わった? 連日連夜、鹿鳴館で内外のレディ&ジェントルマンは舞踏会でごわす。お疲れ様でごわす。
 お陰で武士と職人が干上がった。アッと云う間も無く失業である。共にニートでご猿。天を仰いで長嘆息をしていたその時、突如としてヨーロッパにジャポン・ブームが起こった。パリ万博のお陰である、万国博覧会は第一回が1851年にロンドンで開催され、その後アメリカに渡りニューヨーク(1855)でも好評を得て、第五回目が花のパリで開催となった。これが、奇しくも1867年(慶応三年)で大政奉還の年とドッキングした。と云うことはこの時に徳川幕府が崩壊して葵紋のシバリが解け使用がフリーになったと云う事でもご猿。為に各分野で名人上手が国の威信を懸け、更に腕に撚りを懸け素晴らしい文物を出品した。丁度、折からのオリエント・ブームも寄与し、絵画(琳派・浮世絵)・陶器(白磁・青磁)・漆器・工芸(鍛金・木彫)は大変に高い評価を得て、多くの金銀の賞状を獲得しております。
 その後、日本にとってパリ万博が大成功を収めた事により、海外からの注文が殺到して「葵紋付きの文物」は横浜港からワンサカと大量に旅立って行きました。その中には真物も有りますが、大半がブームに乗った紛物でして、それが近頃Uターンをして来ております。これを別名、ハマ物(横浜のハマ)と云いますが、オールマイティーで雑多な物も有ります。それにしても、このブームのお陰で当時の職人は大変助かった訳ですから責められません。当時、浮世絵は「便所紙にもならない」と言われ、大八車一杯で幾ら?の価値との事です。この便所紙より安い浮世絵が、フランスに渡りマネやゴッホの印象派に影響を与えるとは、不思議な巡り合わせです。何より其の価格の変化はオドロキモモノキサンショノキでご猿。皆さん、古いモノは大事にしましょう。特に七十を過ぎた物はその内、価値を生みまっせ。

 皆さん、もう一度申しますが、購入物に水戸黄門の印籠に似た「葵」の紋が附いていたら要注意です。決して有頂天になったらアキマヘン。漆はカシュー・ペンキかも知れません。よく蒔絵に金粉が振ってありますが、漆に金粉を定着させるには一尺の高さから振らねば後の砥ぎ出しが出来ないと云われております。これは相当な腕と技術が無いと振れません。「桐紋+他の紋」、この手の物はマズマズでしょう。この様な偽物は作っても売れません…。「菊紋」はマズ大丈夫でしょう。必ず由緒書きが附いています。但し下手な字は駄目です。

 掘り出し物は浜の真砂です。千に三ッより下の千に1ッ位でしょう。その心得で丁度です。見付けたら当方にお持ち下さい。真物なら少生が頂いて置き後で高く売ります。コレ冗談。

※ これから夏休みに入りますので、来月号はタンマと致しますので、悪しからず…。

葵 鐔

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