東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の80
(葵紋III)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 8月号は暑さの為にドタマがショートして、肝心な説明がブッ飛んで失礼を致しました。因って、今回は前回の「紋&葵紋」の終了宣言を撤回し、その由来を加筆させて頂きます。

「二葉葵」
二葉葵(原図)
賀茂神社の初期の葵紋はこのスタイルで、葵は二葉の雑草 (山〜水)で元来、三葉は存在しない。葵巴紋も江戸後期になるとかなり変化して、当初は葉柄も細長く湾曲し巴状を為していたが、時代が下ると葉辺は太く短くなる。徳川氏も一門の増加から葵紋の種類も増えていった。

 「葵紋」は京都の賀茂神社の神紋であり賀茂一族を象徴する紋でご猿。由来は賀茂神社の祭神は神武天皇の東征の案内をした八咫烏の化身である「賀茂建角身命」と娘の「玉依姫」。その姫の子供が天上にいる父親に会いに行って帰って来ない、姫は息子に会い度い〜、と願っていたら「葵や楓の髪飾りを付けて待っていれば、その願いは必ず叶う」という夢のお告げが有りこれが正夢となった。それ以降は勅使等の官人や見物人迄が、冠や車に葵や代りの桂を付け参詣した。その為、二葉葵を加茂葵と云う。葵だけを附けるのは片鬘、葵+桂の両方を付けるのを諸鬘と申す。

 その様な次第で賀茂神社の什器備品には葵の紋章が附き、同社の社職だった本多家等は、古くから葵紋を用いていた。松平家も三代信光公(寛正・1460)には加茂朝臣とサインをした文書が残っており、これは先祖が賀茂神社の祠官だったからの故と云う。元来、賀茂氏と繋がりの深い三河武士は葵紋を家紋としてきた家が多く、その代表は立葵の本多氏でご猿。それらを考えると徳川家が葵紋を使用しているのは、徳川家は清和源氏の末裔では無く、賀茂氏の末裔ではないのか?、と云う説(ウワサ)がたび〃〃浮上して来る訳でご猿。

併し、これは家康には少々キッイ話しでご猿。家康は慶長五年(1600)関ヶ原での大勝利、三年後の慶長八年に待望の征夷大将軍となり江戸に幕府を開くが、古来、征夷大将軍には源・平・藤・橘の自出でなければダメ、と云う不文律がある為、出身は賀茂一族なれども便宜上、清和源氏と僭称したのであろう。元来、三河国は源氏の新田・足利氏の金城湯地で、共に後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府(北条・平家)を倒した間柄でもあったので、家康は源氏の名門・吉良家(家康の岡崎城より五里、忠臣蔵や尾崎士郎の人生劇場でも著名)に好みを通じ、首尾良く新田の子孫の系図を譲り受けて、征夷大将軍の資格を得た、と云われております。鎌倉幕府が倒れた後、新田と足利は源氏の得宗家を争い、尊氏が義貞を討取ってV字回復。

 元来、徳川家の租と云われるのは上州・太田で新田義貞を輩出した源義重(弟が足利氏)の傍系である世良田親氏が時宗の勧進坊主となり諸国を巡っていた時、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平郷)の庄屋であった、松平太郎左衛門信重の娘と懇になって入婿となり、松平太郎左衛門親氏の名乗りと葵紋の使用を許されたのが、徳川(得川)の発祥と云われるが、上野国新田庄得川(群馬県太田市得川)の坊主が三河でどんな戦功を立てて三河守となり、世良田がどうして松平になり、本姓の名乗りはどうして徳川なのか非常に曖昧なのである。 三河の松平郷からのネーミングなら、一般的には松平の本姓は在原から派生するのが本来。
※思うに、三河の足助川東岸の山間部を開拓していた少集団が次第に力を付け、平野部に進出して来て、松平の郷名から小字のトクガワとした時に上野の得川か三河の徳川かで迷ったが、征夷大将軍なら源氏の名乗りの得川、三河の賀茂社の祠官なら徳川として、三方、目出度く納まった。これは当時の下克上の世相の反映であり創作的詐称と云える。

 「葵紋」の葵とは数ある葵(雑草)の中の、「二葉葵」Asarum cauiescens Maximkの葉を図案化して家紋とした一族であるが、二葉葵はウマノスズクサ科に属し本来は二葉であり、徳川の三葉を持つ二葉葵は植物学的には有り得ず、ナンセンスなのでご猿。
 初めは、てぇした紋でも無かった葵紋が、徳川家が征夷大将軍になり幕府を開くに当り、次第に一般の使用が憚られる様になり昔から使っていた、松平・本多・伊那の家では、紋を変えたり遠慮する家が多くなったが、正式に規制をされたのは享保八年(1723)である。
 民間では初めはかなり自由であったが、享保七年(1722)に山名佐内と云う浪人が、衣服に葵紋の刺繍をしたり、葵紋の付いた調度類を集めた咎で、お白州で裁かれ判決は「死罪!」。翌年の町触れで、葵紋の使用は「御三家と特に許された大名以外は×」と明文化しています。
徳川葵・江戸 尾州三つ葵 三葉葵・紀州
(徳川吉宗)
丸に陰三つ葵・水戸 水戸斉昭の紋

 葵の古訓はアフヒで、語原は「葉が日を仰ぐから」との事で、葵の葉は常に太陽の方を向いている。臣下たるもの常に主君の方を向いていなければならぬ、葵は忠義の草ダ!と云うので、「君を仰ぐ心をとはばあふひ草 むかふ日かげを指してこたへん」と歌にもある。
 慶長十六年(1611)三月、後水尾天皇の即位式の折り、家康は菊桐紋の下賜の命を受けたが固辞しており、この為に葵紋の権威が上がったとも云われている。
尚、葵の家紋としての初見は、天正八年(1539)卯月十九日の奥書の「見聞諸家紋」である。
徳川家康の少年期
徳川家康の初期

 家康の祖父、清康の衣服にある水葵は水辺や沼に生える草であるが、二葉葵は山に生えて地上を這って行く蔓草であり、植物学上は全くの別種である。家康がまだ竹千代と云っていた時分、家来に渡した笄と小柄に葉の柄が巴の形になった、いわゆる葵巴の紋が有ったと言うが、これの上部と末が連結して環になったのが、三つ葵の紋である。三つ葵紋の葉柄は、古い物ほど長くなっている。そのため当然、三枚の葉と周りの輪との間が、大きく開き葉の間も開いていた。古い衣服の紋、日光東照宮の鬼瓦、江戸城の瓦の紋もそうでご猿。将軍綱吉の頃から家紋の図案化が進んで来て、徳川本家の紋もその風潮に従い、葉柄が短くなり葉と葉が密接するようになった。

 御三家の全ての家が「丸に三つ葉葵を用いるが、各家はそれぞれ微妙に違いがござんす」。徳川本家は全て葵の葉が表、尾張家は表が二枚で裏が一枚、紀伊家は表が一枚で裏が二枚、水戸家は三枚とも裏であったが、それを忠実に守った例は希で多くは表だけになっている。
葵の葉脈にも変遷があり、将軍家は初め33本で有ったが、九代の家重の時から13本に規制され、尾張家も紀伊家もそれに倣って文化11年(1814) に13本と決められた。

 ところで、葵紋付きの寄贈は禁止となった後も徹底せぬ為、明和五年(1768)に御三家の菩提寺以外へ寄付は罷りならぬ、と禁止を命じている。併し、刀剣は武士の表道具として例外で認められ、刀剣の中心には、立ち葵・一つ葵・三つ葵・葵崩しの紋が彫られている。

主水正正清 一平安代が幕府から
下陽された葵紋
筑前重包 初代康継

一つ紋の主水正正清・一平安代・築前重包の三名は吉宗の鍛刀コンクール優勝の褒美である。三つ葵紋の越前康継は、家康・秀忠の御前での作刀が優秀で葵紋を賜り、幕府抱え工となる。前出の水戸の烈公の葵崩しの紋は「時計紋」と云われているが、紋章学では否定されている。

葵据文赤銅魚子地の鐔・小柄・笄
(徳川家康の愛刀鎌倉一文字助真の拵え付き。国宝。東京国立博物館蔵)


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