東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(49)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 ら・ろんどの会主催 奈良・山の辺の道散策が昨年12月5〜6日に行なわれました。
 今,奈良は2010-遷都1300年で大変盛り上っております。折りしも,先日は纒向古墳から3世紀半ばと見られる有力者の居館跡が発掘され,主は女王卑弥呼ではないか,との説もあるとの報道です。若しそうだとすれば,永年歴史家のロマンであった邪馬台国の所在も明らかにされようという期待もあって勇んで出掛けました。
 奈良は高校の修学旅行以来ですから50年振りです。
 初日はJR奈良駅から三条通りを東へ向かいます。猿沢池を左に石段を上ると興福寺です。昨年上野の博物館の展示で大評判だった阿修羅像が旅から帰って来て国宝館で見ることが出来ました。興福寺は669年,中臣鎌足の私邸に建てられた山階寺を起源とします。
 大化の改新で中大兄皇子と謀って蘇我氏を滅しましたが,鎌足は,蘇我氏の専横ぶりに業を煮やし,同氏の滅亡に呪いを籠めて,こわい顔をした阿形像や竜灯鬼像を作らせたそうですが,阿修羅像は非常に優しい表情が評判の源泉であるようです。大化の改新の功により藤原の姓を賜り,子孫は,不比等,光明子と続き,平安時代になってからも,道長,頼通と栄華を極めます。京都から奈良へ向かう車中から,拾円硬貨で有名な平等院を望むことが出来ますが,この平等院という名称は栄華の頂点に在った道長には相応しくないのではないか。
 この辺り,鹿が昔から住んでいて和歌にも詠まれています。
 『奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき』猿丸大夫
 『わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり』喜撰法師
 『世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる』藤原俊成
 鹿と云えば紅葉を連想するのは花札の所為でしょうか。こんな都々逸もあります。
 『秋が来たかと紅葉に問えばしかと相談すると云う』
 奈良駅を出たときは10人居た仲間は,三三五五ばらばらになり,春日大社の奥の院に入ったときは4人になっていました。あとで聞きましたら東大寺まで行った人もおりました。
 私が東海道五十三次を歩き終えたとき,飛澤さんという方から電話を頂き,「東海道五十三次のルーツは奈良東大寺二月堂で,修二会といって,お水取りの業が明けたとき,深夜に松明に火を付けて走る儀式があることを知っていますか」と云われ,その後師事して理解するのに10年かかりました。春の到来を告げるという修二会の儀式をいつの日か見に行こうと思っています。
 春日大社には,慶長5年(1600)直江山城守の息女が寄進したという釣灯籠が飾ってありました。石田三成と謀って家康軍殲滅を祈願したのでしょうか。
 2日目は古代史の大学の先生の案内による山の辺の道の散策です。
 山の辺の道は,奈良盆地の東南にある,素麺で有名な三輪山の麓から,東北部の若草山に並んでいる春日山の麓まで,盆地の東端を山々の裾を縫うように通っています。全部歩くと20km以上あり,我々の体力ではとても無理なので,先生のご指導でほんの一部7kmを行きます。先生は古代史の研究の為,自転車を折り畳んで袋に入れ,東京からやって来て何回も通っていますので,自分の手の平のように熟知されているそうです。
 JR柳本駅を降りて徒歩5分で黒塚古墳展示館があり,脇の小山が黒塚古墳です。三角縁神獣鏡が30枚以上発掘され,これは有力者の墓ではないかと今研究中です。その先5分で崇神天皇陵があります。崇神天皇は実在したと思われる最古の天皇です。
 『柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺』これは正岡子規の有名な俳句ですが,この句が口をついて出て来るほど,柿の実が沿道に実り,民家の軒先にも置いて売っています。
 昨夕,仲間とはぐれ,携帯で連絡を取り合っていましたが,ついに出会うことが叶わず,集合時間に遅れるので,春日大社の一の鳥居でタクシーを拾いましたが,そのドライバー氏の案内によると,「山の辺の道は車が通れず,レストランもありませんが,道々で売っている果物,野菜等で充分ですよ。」とのことでしたが,大きな天幕を張って案内を兼ね,食糧を売っている翁に出会いました。朝4時に起き,ご飯を炊いて10kmの道を通い,毎日通る人との遣り取りが生き甲斐とのこと。年を訊いたら80才,ききもしないのに4回結婚したと自慢していました。次の目玉,景行天皇陵まで楽しい道行きが続きます。
 景行天皇陵はこの時代特有の前方後円墳。
 古事記によれば,景行天皇は纒向の日代宮という地に来て天下を治めた。6人の妻や妃との間に御子は,記録のあるのは21王,記録のないのは59王,合計80人の王,そのうち1人が倭建命である。又倭建命の曾孫の須売伊呂大中日子王の女,訶具漏比売を妻とした記述もあり,年代的に不合理である。しかし80人のうち77人の王はことごとく諸国の国造や別,また稲置・県主に分封したというから大きな勢力の持主であったようだ。
 山の辺の道を離脱して纒向の遺跡に向かいます。当寺は昭和53年から調査開始,以来160回以上実施され,3世紀半ばごろの遺構であることが確認されました。太い柱を埋めた穴があり,建物は12m×20m,約240m2,軒高10mの高床式であったと推論され,その大きさと年代からあるいは卑弥呼の居館では?との報道で遷都1300年と合わせて大きな反響を呼んでいます。ブームに肖かろうと,巻向駅から至近の建売住宅がなんと,「卑弥呼の里」と銘打って売り出されています。
 第166次調査は平成21年9月1日から11月30日まで実施されました。現地はブルーシートに覆われ,係員が居て,「近くの桜井市立埋蔵文化財センターで資料がもらえます。」とのことで,三輪素麺の元祖が経営している豪華な茶店風のレストランで昼食後,文化財センターに向かいます。朝からの長丁場を歩き,11人の隊列は長く伸び,全員が揃ったときは,皆疲れて果てぐったりしてしまいました。隊員の長老N氏が急に脚に異変を来たし,足を引きずって,まわりの人がかばってやっと辿り着いたことが分かりました。ここで奇跡が起きました。我がろんどの会の歌姫N嬢が,今日は何んとなく女王卑弥呼のような雰囲気を醸し出していると思って居りましたが,N氏に欧州渡来の秘薬を渡し,「痛い処に貼りなさい」と仰るではないですか。N嬢の呪術により,N氏の痛みはすっかり回復し,最後は大神神社にお礼参りし,JR奈良駅で楽しい1泊2日の旅を終えることが出来ました。
 『やまとはくにのまほろばたたなずく青がき山ごもれる大和うるわし』
 ろんどの会事務局で作成して下さった今回の旅のパンフレットの中,万葉歌碑の頁に,最後に訪ねた大神神社のすぐ近くに,上記の歌碑があり,作者は倭建命,と記してありました。この歌は日本の美しさを称える為に多くの人が引用されているのを見て来ました。
 私も山の辺の道は何とおおらかで素晴らしいことかという感想を抱いておりましたが,景行天皇の王と云われた倭建命がこの地で詠だことを知り感慨も一入でありました。

 



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