東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(51)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 私が鎌倉に関心を持ち始めたのは10年近く前のことです。明治40年生まれの母 末子が95才で亡くなり,鎌倉霊園に埋葬しました。父 正義は群馬県高崎の出身で,青山学院大学卒業後,神田で出版業を営んでいるとき,和歌山県出身の母と出会い,私達一男,三女が生まれました。
 母の遺品を整理しておりましたら,和歌山で長唄の師匠をしていた祖母 豊が愛用した三味線や,和紙に毛筆で書かれ,縒で綴じられた唄の教則本等がありました。他に,これは父の形見とのことで,毛筆の手紙を装丁して,家宝のように大切に保存した巻物が出て来ました。
 高崎の祖父 留四郎も青山学院の出身で,その手紙は,祖父が日露戦争で出征したとき,騎馬隊長として活躍し,敵の軍旗を奪う手柄を立て,それを知った青山学院の本田さんという学長先生が軍事郵便で父を称える為に送ったものであることが分かりました。
 三味線や教則本は廃品として処分し,本田先生の手紙は,私の長女,祖父から四代目,母方の祖母からも四代目,名も祖母と奇しくも同じ豊子が,青山学院に在籍したのを機に大学図書館に寄贈し保管してもらいました。
 父 正義は応招で出征しサイパンで戦死しました。昭和19年7月7日,享年40才でありました。
 私が結婚したとき,鎌倉の墓地をローンで買い,父の墓を建て,故郷高崎の曹洞宗浄泉寺から住職氏を招き,改元式を催し,父の霊を死後25年経って安置することが出来ました。
 母は決して父の墓に詣でることはありませんでした。終焉の地サイパンへ行ったときは万歳岬で万感の思いで涙を流しておりましたが,「戦争で夫を亡くした妻の気持ちは,墓を建てて拝んだからといって癒されるものではない。」というのが母の云い分でした。
 父の墓参りは春と秋のお彼岸には毎年行きましたが,母の死後は月に一度は必ず行くようになりました。その頃は高速道路が延伸し,それまで3時間かかった行程が一時間で行けるようになり,周辺を散策する習慣が身につきました。
 鎌倉は春夏秋冬いつ行っても,家族で花鳥風月を愛で,古刹を訪ね歴史を探訪することが出来ます。私のお気に入りのコースは
 (1)建長寺から半僧坊の急な石段を昇り,天園−瑞泉寺に到る。約2時間でアルプス
   のように尾根沿いに歩き,市街が一望できます。
 (2)寿福寺−葛原ヶ岡神社−源氏山公園−銭洗弁天−長谷の大仏に到る。栗鼠に
   出会ったり,樹間から望んだ夕日や海の表情が美しい。
 (3)段葛−北条高時切腹やぐら−祇園山ハイキングコース−八雲神社−ぼたもち寺
   −琴弾橋−段葛に戻る。途中大仏次郎邸が公開され,茶代500円で見学すること
   ができる。
 (4)杉本寺−報国寺(竹寺)−巡礼の道を上り衣張山へ,富士の景観が素晴らしい。
等です。
 毎月1回散策致しますと,鎌倉の歴史に興味が湧いて参ります。
 鎌倉幕府は,日本初の武士による政権です。以後,室町時代,織豊時代,江戸時代まで約700年武士の時代が続きます。
 平安時代,天皇を中心とした政治は貴族によって支えられ,武士は武力で荘園を守ったり,政権を支える為に起こりました。源氏,平氏の二系統があり,源氏の元は清和天皇,平氏は恒武天皇を祖とします。
 源頼義,義家父子が阿部一族と戦った。前9年の役,後3年の役により,東北地方は統一され,東国の平氏を駆逐した源氏は鎌倉を本拠地とします。
 その後,天皇から上皇に権力が移り,その影響で源平の間で確執が生じます。保元の乱で勝利した義朝は,平治の乱で敗れ,平氏の時代となります。義朝の長男頼朝は伊豆に流され配流の身となり,幼い義経は鞍馬山に預けられます。頼朝は伊豆で知り合った北条政子の父時政や,相模,上総,下総に雌伏していた後家人達の支援により旗上げします。
 鎌倉は七口と云って,名越,朝比奈等七ヶ所の切通しによって守られた要害の地であり,由比が浜に注ぐ行合川で砂鉄が採れたこと等が頼朝がここに幕府を開く要素となりました。
 応神天皇を祖と仰ぐ鶴岡八幡宮が建てられ北東に大蔵幕府が創設され,約150年間日本の政治の中心となりました。
 鶴岡八幡宮には京都から名僧知識が集まります。その陣容は一別当,二十五坊として形成され,二十五坊のうち十六坊が平氏一門の出自であり,北条一族は平氏の系統であることを考え合わせますと,鎌倉幕府は源平連立政権と云えるのではないでしょうか。
 頼朝が後白河法皇にとり入った弟義経及び藤原泰衡を滅さなければならなかったのは,兄として大変辛かったに違いない。奥州征伐の戦没者数万の怨霊を鎮める為永福寺が建立されました。今はありませんが,寺の名からも,その後の平和を願う気概が籠められているようです。
鎌倉のまちづくりは,京都に倣ってなされました。小高い山に囲まれた盆地に鶴岡八幡宮を配し,東を天台山から衣張山までの南北の尾根,北側を天台山から十王岩までの東西の尾根,西側は十王岩から建長寺までの尾根と,コの字型に守られ,南の海岸の防備を囲めば,磐石な要塞都市となります。
 頼朝の死後,長男頼家,次男実朝まで,将軍としての源氏の血は三代で途絶えます。
 平清盛は娘を皇室に嫁がせ,孫が天皇になると,外祖父として権勢を極めます。
 頼朝も娘を皇室に入れようと画策しましたが,婚約が整うと夭折したりで叶わず,実朝の後は北条家が執権として抬頭します。政子の弟義時から泰時,時氏,時頼,義景,泰盛,政村,時宗と執権は北条家が襲い,貞時,高時の十代目に新田義貞に攻められて滅亡します。その間も後家人と源氏,北条家との間で権力争いが頻繁に起こり,民衆にとっては不安な時代であったようです。
 鎌倉五山と云えば,建長寺,円覚寺,寿福寺,浄智寺,浄妙寺ですが,これも京都五山に倣って定められました。
 建長寺は文永(1268),興安(1274)の役で蒙古と戦って亡くなった兵士の霊を慰める為に建てられます。長谷の大仏も同じ頃創られました。柔和な表情から当時の人々の平和を願う心が伺われます。円覚寺は執権時宗が建立しました。二度の蒙古来襲を退け,三度目も断固排除するという祈りを籠めたと云われています。第三位の寿福寺は,頼朝の死後,比叡山から迫害され鎌倉に政子を頼って逃れて来た栄西が開山しました。四位の浄智寺,第五位の浄妙寺は,後家人尾藤景網及び足利義兼が居館として与えられた跡地に建てられました。他にも名刹が軒を接して建てられ,その数500寺と云われますが,それぞれ故事来歴があります。紫陽花で有名な東慶寺は俗に駆込寺あるいは縁切寺と云われています。花で有名な瑞泉寺,月の名所の明月院,竹林に覆れた護国寺等,それぞれ趣があり,800年の風雪に耐え,訪れる人々に大きな安らぎをこれからももたらすことでしょう。
 ここまで綴って来て,800年の間多くの人々の祈りが籠められている鎌倉の地は,大戦に敗れて亡くなった戦士であった父と,父の死後戦後の混乱期から子育てをしながら父の生涯の2倍以上の間,芸の道を全うし,明治,大正,昭和,平成を強く生き抜いた母の霊を安置するのにこれ以上相応しい処はないと確信致しました。

 



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