東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(58)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 秋の彼岸を過ぎれば、日本列島は激しかった猛暑から一転、集中豪雨で潤い行楽の秋となります。
 前回述べた東海道ネットワークの会例会参加のため、台風の影響による雨の中を出掛けましたが、大津駅に降り立った時は爽やかな秋風が吹いておりました。
 今日で4回目になりますが、近江地方は訪れる度に歴史の宝庫であることが実感出来ます。比叡山をはじめ、東山36峰が見下している琵琶湖を中心に、中国の「瀟湘八景」にならって、室町時代に近江八景が定められました。
 大津の湖岸には高さ6米もある常夜燈があり、舟運の安全と旅人が歩くよすがとして建てられました。以来長い間、街の発展と歴史の流れを見つめて来たことでしょうが、今はその役目を終え、訪れる人がボランティアガイドの説明を聞いて繁栄した昔を偲んでおります。
 嘗て大津は、関西で三番目に栄えていた都市でありました。陸路は東海道、中山道が隣の草津宿で交差し、琵琶湖西岸を北上すれば北国街道に通じ、舟運は琵琶湖から、瀬田川、宇治川、淀川を経て大阪湾に出ることも出来ます。
 江戸時代、大津百町と云って、狭い地域に百の町があり、幕府直轄の御蔵町、甲斐徳川家の川口町、井伊、前田、津軽等の諸藩も直営地を持っており、その他職人の町、商人の町が寄り合って商業都市を形成しておりました。街が発展して手狭になると琵琶湖を埋め立てて拡張します。現在の湖岸は元の位置から200米前進しています。
 私が東海道中で偶然見ることが出来た大津祭は江戸初期から続いている伝統ある文化イベントで、大津の経済力と町衆の心意気を示すものです。
 石場の港、小舟入等地元のガイド氏に案内して頂いた後、瀬田の唐橋を望む中州の青年会館で昼食をとり、午後は少人数が幸いして借りたマイクロバスで旧東海道を忠実に走り、草津経由で矢橋道への追分にある道標を確認します。銘菓「うばがもち」を商っていた老舗は未だ健在で、瓢箪に飲み物を入れて売る店になっており、店番の人はおりません。
 16年前私が歩いた東海道はこんなにくねくね曲っていなかったと記憶しており、たまたま席が隣に乗り合わせた日本橋のK氏に訊いてみました。K氏は最近東海道を踏破されたばかりでしたが、「宿場はしっかり確認しましたが、途中のルートはあまり気にしないで歩きました」とのことで少し安心しました。
 老舗うばがもち屋前の道標から今はありませんが、大津への船渡し場「矢橋湊」まで廿五丁(約二・五粁)あります。途中JR琵琶湖線を横断した先に、鞭崎八幡宮があります。源頼朝が馬上から鞭の先で指し、「何という神社であるか」と尋ねたという故事により名付けられました。矢橋港から眺める琵琶湖は近江八景「矢橋帰帆」として広重もこの絶景を浮世絵に描いています。あとの七景は、「石山の秋月」、「瀬田の夕照」、「粟津の晴嵐」、「三井の晩鐘」、「唐崎の夜雨」、「堅田の落雁」、「比良の暮雪」です。矢橋港からの船の発着は今は無く、公園となっています。
 今日訪れる最後の名所芦浦観音寺は同寺の突発事情で見学出来ませんでした。開基は用明天皇の御代に聖徳太子によってなされました。室町時代は幕府より湖上管船奉行を掌り、豊臣秀吉の知遇を受けて勢力は拡大し、領地も近江、大和に4万石を有しておりました。残念ながら、門前で説明を聞き、烏丸半島の船着場より船をチャーターし、矢橋の渡しの雰囲気を堪能して大津港に上陸し、今日の行程を終えます。大津市と米国のミシガン州は姉妹都市になっており、ミシガン湖で就航しているものと同じ型の大きな船が鐘の音を合図に客を乗せ琵琶湖を遊覧しています。
 2日目は朝鮮人街道に沿って草津宿から近江八幡、安土城天主、彦根城下町へと中味の濃い探訪となりました。よくこれだけの名所を隈なく巡る行程を作ることが出来たものかと、企画された幹事の諸氏には頭の下がる思いが致しました。
 東海道は京立ち石部泊り、中山道は京立ち守山泊りと云われました。朝鮮通信使の一行が京都に数泊した後、出発した日の宿泊地は守山で、東門院が定宿になっていました。守山は山を守るとの意で、山は比叡山延暦寺です。
 10年前、初代会長鈴木和年氏の遺言により、比叡山延暦寺で創建時から千年以上燃え続けている有難い火を会員がリレーして上野東叡山寛永寺まで運ぶ大イベントが実施されました。私は母親が寝たきりになって参加出来ませんでしたが、イベントの完遂を機にネットワークの会は現会長の下に再発足して10年になります。
 朝鮮通信使は江戸時代に12回、幕府によって招待されました。主旨は豊臣秀吉が2度の朝鮮征伐での侵略を反省し、国交回復する為で、これは前回も書きました。当初の3回目までは強制的に連れて来た捕虜を返還することも大きな目的であったことを今回の幹事氏の説明で知りました。徳川幕府は国交回復に12回と200年の年月を費やしたのであります。ところが明治以降、日本は朝鮮を攻め、その後属国にして、朝鮮人民を苦しめたことを私達は忘れておりました。私が学生の頃、米軍の士官で韓国駐在の若い青年が東京に来ていて、たまたまバーで会って片言で会話をしておりましたら、「何故日本人は韓国人をかくも虐待したのか」と云って大変怒っておりました。私は反論する知識も語学力も無く何も云うことが出来ませんでしたが、今思うと、徳川幕府が長い時間をかけて回復した関係を、私達の祖先は再び失墜させたことは大いに反省すべきであると感じました。
 バスの中で頂いた、サンライズ出版『朝鮮人街道をゆく』を読みますと、これは彦根東高校の先生が学生と共に現地を歩き、住民に尋ね、使節達の歩いた道を正確に再現した貴重な記録でありました。
 朝鮮人街道は野洲で中山道と辿れ近江八幡に向います。私は今回で3回目になりますが、本願寺八幡別院前でボランティアガイドの島林女史が待っていてくださり、懇切丁寧なガイドで増々理解が深まり、愛着が湧いて参ります。この街は秀吉の甥秀次によって整備され、琵琶湖から水を引き入れ、堀をめぐらし、舟運によって近江商人が物資を流通させ街は発展します。今でも近江商人は、三方よしの精神で全国に出掛け活躍しています。ふとんの西川、メンタームの近江兄弟社は現代まで続いています。
 江戸時代、寛政の改革で田沼親子による乱れた幕府の政治を立て直した松平定信の政治顧問となり、寛政三年(1790)『近世畸人伝』を著した学者、伴蒿蹊が当地の出身であることを初めて知りました。屋敷跡が保存されています。蒿蹊によりますと「畸人とは外見を飾らないが、内に深く蔵するものがある。心の赴くままに生きているようだが、それでいて少しも周囲の平安を乱さない。格別自分を縛ってもいない。才芸に勝れていてそれで豊かになれるのにその気を起こさない。いかにも朴訥に見えるが決して愚かではない。
例 儒学者 中江藤樹、貝原益軒、国学者 本居宣長、画家 伊藤若沖、上田秋成、太田南敏 等」酒游舘で昼食後、安土城天主、信長の館に向います。
 安土城は天正7年(1590)織田信長の命によって建築されましたが、1582年本能寺の変後、築城後僅か3年で焼失し、以後「幻の名城」と呼ばれて来ました。しかし加賀藩の御抱え大工に伝わる「天守(主)指図」(設計図)が発見され、1992年スペイン「セビリア万国博覧会」の日本館メイン展示に、安土城天主の5、6階部が内部の障壁画と共に復元され、世界中から多くの人が見学に来て好評を博しました。当文芸の郷には、万博終了後安土町が譲り受け解体移築し展示されています。キリスト教布教に来た宣教師が見て、「その高さ46米の壮大で絢爛豪華な様はヨーロッパにもない世界一の壮大なもの」と絶賛したそうであります。現代人の私達が見てもその豪華絢爛さに感動し声も出ないほどでしたが、これが46米の最上階に鎮座していたのですから、当時の人々が見たら、一体どんな感慨を抱いたのでしょうか。こんなことやってのける信長の末恐ろしさを感じたのではないか。信長があと20年生きていたら日本はどんな国になっていたのか。それを想像することが歴史を探訪する楽しみでもあります。1時間足らずの間、430年前にタイムスリップして感慨に浸っていると、突然集合の声がかかり、現代に戻り今日最後の見せ場彦根城に向います。
 関ヶ原の戦いで東軍の主力として貢献した初代藩主井伊直政は、西軍の総帥石田三成の居城佐和山と目と鼻の先にある琵琶湖畔に城を築きました。三成は領民に慕われておりましたので、佐和山城は一石残さず破壊し、石は彦根城の石垣に、木材は城下に築いた寺の山門等に利用しました。三成のイメージを払拭する為に城下町は大改造されました。彦根城が完成したときは、直政は関ヶ原で負った傷が元で既に亡く、2代目藩主が最初の城主となりました。以降井伊家は徳川四天王の一として代々幕府の要職に就き、西へにらみを利かせました。今はお城通り等、道路を広げて街づくりを進め、歴史的景観を重視し、現代に甦った新しい城下町として多くの観光客を集め賑わっております。
 今日通って来た、草津、守山、八幡、彦根で、朝鮮通信使の一行は至れり尽せりの接待を受け、供された豪華な料理が、レストランの見本のように信長の館で展示されておりました。
 およそ20年に一度のイベントでしたが、道路は1年前から整備され、沿道の藩及び領民は多大な負担を強いられ、一揆が起きたこともありました。
 江戸時代は鎖国の状態にありながら、隣国と良好な関係を保つ為に国を挙げて対応していたという史実は私の知識になく、新たな勉強をすることが出来ました。
 今日の開かれた世界に於いても、我が国は近隣諸国と必ずしも良好な関係であるとは云えません。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと云われていますが、私達は賢者か愚者か、今日ほど試されている時はないのではないか。




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