東京木材問屋協同組合


文苑 随想

福沢諭吉と武士道

榎戸 勇


 福沢の父は中津藩の勘定方に属する武士である。父は大阪堂島にある藩の米蔵管理のため大阪に居り、諭吉は大阪で生まれた。幼時は商都大阪で育ったので、商人達の逞しい商取引をそれとなく見ていたようである。しかし父が大阪で亡くなったため母に連れられて中津へ行った。(現・中津市、大分県の最北西に位置し、西側は川をまたいで福岡県である。)中津は瀬戸内海の西のどん詰まりで内海に面しており、海上交通の要所でもあった。

 諭吉の中津住まいは厳しい母の躾で武道一般、そして武士としての生き方を教わったという。つまり武士道に基づく教育である。
 武士道は私共戦時中の教育でも教わっていない。海軍予備学生の生活でも、とりわけ武士道についての教えはなかったが、軍人勅語は基本的には武士道だったのかも知れない。

 武士道に関する書物はあまり無いが、日清戦争直後、明治32年(1899)に新渡戸稲造が欧米の人達に、我国の道徳は封建制のもとで確立した武士道に基づいていることを知って貰うために英文で著述し、日本語版も出版された。 『武士道』という本は、京都大学文学部国史専攻を昭和13年に卒業し、多数のユニークな著作を発表している奈良本辰也が原文に忠実に現代文に直した本が、14年前に三笠書房から出版され、3年前に第54刷が発行されたので、大きな本屋には置いてある。私も昨年購入して読んだ。

 一言で言えば、武士道とは「忠君愛国」のように私は読み取った。この場合の忠君は武士にとってはそれぞれの藩の殿様であり、藩の殿様は将軍への忠である。
 愛国も自分の藩を愛することで、広く日本全体を愛することではないように思える。

 「忠君は二君に仕えず」と言う言葉があるが、少なくとも徳川時代までは二君にも三君にも渡り鳥のように親分を変えている大名が多い。柴田勝家は当初信長に背を向けていたが、どうも信長を親分にした方が良さそうだと思うようになると、信長のもとに走ってその配下に入っている。
 また、加藤清正、福島正則は秀吉のもとで武勲をあげ大名になったのにも拘らず、天下分けめの関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属し(加藤清正は家康の指示で居城熊本城に居て、九州の諸大名が西軍に加担して出兵するのを抑える役目をした。)
 何となく今の国会議員の身の振り方を連想するが、政治家にとっても、大名にとっても、自分の身が一番大切なのであろう。やむを得ないことかも知れない。
 特に戦国時代の大名は、天下分け目の戦いで負けてしまえば、領地は没収され、沢山の家臣やその家族が路頭に迷うことになるので、自藩の安全が一番大事、昨日の敵は今日の友、そして今日の友は明日の敵になることが沢山あった。

 さて、福沢諭吉であるが、諭吉は中津で厳しく教えられた武士道精神を人生の規範として、幕末に慶應義塾を創設し新しい時代の担い手の育成に盡力した。

 しかし、諭吉の武士道精神で私が腑に落ちないことがひとつだけある。
 それは諭吉が勝海舟、榎本武揚について、彼等は幕臣であったのに明治新政府に仕え、海軍卿(海軍大臣)、陸軍卿(陸軍大臣)という要職についたのは、武士の風上に置けないと言っていることである。勝も榎本も維新後の日本が、迫ってくる列強に押し潰されないためには、海軍、陸軍の近代化が必要だと思い、旧幕府や新政府の枠にとらわれず、日本全体、そして国民のために尽力したのである。
 勝は幕臣であったが以前から我国全体のことを考えていたので、品川での西郷との会談でも江戸城明け渡しに応じ、徳川250年の歴史が幕を閉じることに合意した。もし国内が2つに割れて戦うことになれば、国が亡びるのではないかと心配したのである。

 福沢諭吉は偉大な教育者である。明治維新後140年余り、慶應義塾大学は首都圏における最有力私学のひとつとして、多くの人材を育てている。

 さて、今回は渋沢栄一を離れて福沢諭吉について述べたが、渋沢の名言は非常に多いので私も、そして読んでくださる方々も厭きたと思うので、ここ暫くは渋沢から離れてみたいと思った次第である。ご了承して頂きたい。

平成23年2月6日 記

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