東京木材問屋協同組合


文苑 随想

新木場に居て
─さて、これからを考える─

榎戸 勇


 新木場木材団地は昭和49年から51年にかけて3次にわたって行なわれた。
 当店は関連会社の(株)山恵と一体になって現在の場所へ移転した。当初東京都は榎戸材木店は原木業なので原木問屋の場所へ、山恵は製材業なので製材業用地へと離れた処への移転を示したが、それでは両者の管理ができないと申し入れた結果現在の場所、製材業用地へ両社分を一括して払下げを受けた。
 私共の製材工場は本業の原木業からみるといわば副業なので設備はやや控えめに中規模の工場とし、跡地を都へ売却した資金の範囲で用地、建物、機械設備一式をまかなえるようにした。移転完成を無借金でできたのである。既に65歳前後の数人は退職してもらい人数を若干減らした。設備は全部新品にし、搬送設備をしたので、人数が少なくなっても製材量は2割位増やすことができた。賃挽製材なので沢山の利益は無いが、まずまずの成績で数年を過すことができ、工場長に任せっきりで私は榎戸材木店の営業に専念することができた。
 東京木場の製材はほとんど南洋材製材である。米材製材は静岡県清水や広島県が主体、北洋材製材は裏日本の工場が担っており、清水の米栂製材品は富士清会という統一組織のもと東京市場へ大量入荷していた。南洋材は太い丸太なのでバンドソーも60吋以上の設備をし、東京の南洋材製材品は関東から東北、更に北海道に迄販路を伸ばし、各製材工場は丸太入荷が漸減するなかでどうにか操業を続けた。

 東京木場製材協組の組合員数は昭和46年がピークで109工場あり、この内原木から製材する一次製材の工場は83工場であり、その年間製材工場の原木消費量は北米材を含め約150万m3で、150万m3台は昭和42年から昭和47年迄6年間続いた。新木場移転前の古い工場時代である。この時代に新木場移転の交渉が都と業界との間で行なわれたので、業者は皆前向きに取組み、工場設備の合理化で製材能力は全体として3割位増えたようである。

 ところが、昭和48年の狂乱物価の後、翌昭和49年は公定歩合が大幅に引きあげられ、一変し不況に突入した。一次製材業者は第一次移転グループとして既に土地の払下げを受け工場建設の交渉を機械メーカーと進めていた時である。そして昭和50年には大型の製材工場が新木場に工場建設の申請をして大中の工場が次々と造られた。

 このように製材能力が大きくなったにもかかわらず南洋材原木の入荷量が次第に減少したのである。昭和49年は不況による輸入減であったが、景気が若干回復した昭和50年以降も輸入量が漸減し、新木場の製材工場はその80%強を南洋材に依存していたので、稼働率が次第に下ってきた。そして昭和55年にはついに製材量が664千m3になってしまったのである。旧木場時代のピーク時には南洋材を130万m3、古い工場でフル生産していたのに、新木場へ移転した昭和50年以降は略々100万m3前後、そして昭和55年は製材量が66万に急減、新木場の大型製材工場は減価償却、借入金の金利負担等のためほとんどの工場が大赤字になってしまった。

 どうしてこの様に輸入量が激減してしまったのか。米材業の私にはその理由が分からないので、南洋材に詳しい方、商社や業者に聞いたが、一つはサバ、サラワクの伐採地が次第に奥地に進み、伐採適木が少なくなったこと、二つには、現地に製材工場、合板工場が造られたので、輸出に回す原木が減ったことによるものらしいと私は理解した。そうだとすれば今後丸太輸入は減ることがあっても増えることはあり得ないわけである。ちなみに南洋材現地挽製材品の東京への入荷量は昭和52年が約86千m3、53年は93千m3、54年は136千m3、そして昭和55年は160千m3に増えている。

 昭和55年6月、南洋材製材の大手笹野木材工業が製材工場を閉鎖した。昭和50年8月に新工場を新木場に造ってから5年足らずである。私の工場は賃挽き工場で、お客さんは南洋材の地挽業者が主体であったが、廃業する人が次第に増えたので、昭和56年に私も工場を閉めた。幸いにも当時はまだ多くの製材工場が操業していたので、工員さんは工場長により新木場内の製材工場への就職ができた。そして65歳を過ぎていた工場長は自ら退職し、従来の人脈を生かして息子と共に木材の仲介業をした。全て円満にできたので、製材機や搬送機等は製材機メーカーが引取り、オーバーホールして現地へ売却した。
 私共は建物を整備補修し貸倉庫にして今日迄支障なく賃貸している。

 以上が殆ど無くなった新木場の製材工場の建設から閉鎖迄の大まかな経緯である。当組合は組合員の多くが建築用製材品の問屋なので、製材工場とは無関係かと思うが、今回は製材工場が新木場から消えた経緯を述べさせて頂いた。ご寛容頂きたい。
 さて、「これからを考える」と副題をつけたが、86歳を過ぎた私には良い考えが浮かばない。木材需要の内容はプレカットの普及で集成材に移行し、供給も北米材に並んで北欧材が多くなり、乾燥材、集成材がコンテナで入荷する時代になった。どうやら私の時代は終ったようだ。今後のことは息子(現社長)と孫(26歳)に任せて、老後をゆったりと生きることにしたいと思っている。

平成23年10月7日 記
 

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