東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.130


「桜田門外の変」の真相
青木行雄
明けましてお目出度うございます
※羽田国際空港の初日の出

 平成22年(2010)は安政7年(1860)「桜田門外の変」が起きてから、150年にあたる。そして、この「桜田門外ノ変」の映画やいろいろな論争等雑誌にも多く記載されてきた。
 この対立は、主に彦根井伊藩と水戸徳川藩の行違いから発展して行ったのである。善悪論ではなく、歴史を考える際に大切なのは、どんな状況下で何を基準に判断を下したかという過程などで、この映画「桜田門外ノ変」を見るとよくわかりやすい。歴史上の人物や、この幕末当時の人々は物事に「命がけ」であったと言うことも良くわかり、その緊張感は、今の私達には考えられない事ではないか等、この「桜田門外ノ変」の映画を見て思った次第である。そして私が特に興味を持ったのは現在の彦根井伊家18代当主、井伊直岳氏と水戸徳川家15代当主、徳川斉正氏も知人であると言うことから私の心を沸き立たせた。
 そこで楽しみに待っていた映画を早速見に行って来た。感想やあらすじ、状況等を記しておきたいと思ったのである。

 今から150年前、季節外れの雪降りしきる3月3日(今で言うひなまつり)の午前9時、水戸の浪士を中心とした18名の襲撃により、時の江戸幕府大老・井伊直弼の首が刎ねられた。この事件は江戸城・桜田門の近くで起きたことから、後に「桜田門外の変」と呼ばれることとなったのである。

 本筋に入る前に今の桜田門付近はどうなっているのか歩いてみた。

※半蔵門から桜田門の方向に下って行くと左側に見える風景。
  実に素晴らしい景色である。中央の水面に面した所が桜田門である。高層ビルが立ち並び、昔では考えられない風景である。
※国会前交差点から写す。右側が井伊邸跡で広い公園になっている。
※桜田門に向う途中の右側、高速の出口の上あたりにこの看板がある。「井伊掃部頭邸跡」とあり、掃部頭とは歴代当主のことを言う。
※今の警視庁の前から写す。したがって文面の中にも記したが、この辺りが豊後杵築藩上屋敷・松平邸から見た桜田門である。ちょうど門の所に清掃車が止まっていた。

 地下鉄「半蔵門線」半蔵門駅で下車。半蔵門から桜田濠沿いに霞ヶ関方面に向かって下りてゆくと、目の前に広がる景観は、今でも東京一の景色だと私は思っている。
 下りの途中、右に国立劇場や最高裁判所等があり、内堀通りの左手には、濠の水面と皇居の森が続き時期によっては水面の鳥たちも見える。右は三宅坂になる辺りまで来ると、行く手に官庁街がいっぺんに開けてくる。右手の奥には国会議事堂がデーンと立っていて、東京の中心部だから高層ビルが眼に飛び込んで来る。江戸時代、ここらの眺めは江戸でも一番美しい濠のほとりで桜田門まで下り坂が見渡せる所であった。通りの右側は、江戸時代の地図を見ると大名屋敷が連ねていた。
 国会正面からまっすぐ霞ヶ関に下って来る広い道路が内堀通りに合流する少し手前、現在憲政記念館の敷地になっている地点が、かつて彦根藩邸があった場所である。1m程の立看板が立っていて、「井伊掃部頭邸跡」と記されている。幕末の大老、井伊直弼がここに住んでいたと説明があった。
 こんな事が書いてあったので記しておく。
 「この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主『加藤清正』の屋敷でした。加藤家は2代忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)」

 高速道路トンネルの出入口なので排気ガスがすごく人気がなかった。左側の濠沿いはジョギングをしている人とひっきりなしにすれ違った。
 井伊邸の前から緩やかな坂道を下って、登城する直弼を乗せた駕籠の行列が桜田門に向う道筋の全景は、自動車でもよく通るが、今もこの辺りだろうと想像することが出来る。そして桜田門の近く、今の警視庁前辺りで暗殺されたのである。
 もう一つ私が大分出身であると言うことで奇遇に思う事から調べてみた。現在の大分県杵築市、豊後杵築藩上屋敷がすぐ近くにあって、事件の時、ここからその現場を目撃した記録が残っていた事である。記録には「窓下騒がしきにつき、何事かとのぞき見たところ、…大兵の男一人、並背の男一人、駕籠を目がけ裃を着た主人を引き出し……大兵の男、首を切り刀につらぬき大音を発す。その声前後しかと相変わらず、『井伊掃頭』とまでは聞こえ候…」とあり、襲撃の現場をよく伝える内容となっていると言う。現在は警視庁がある所である。その現場に行き、その前から写した桜田門の写真である。

 では本筋に入ると、
 時代の転換期に立った明治維新前の日本、黒船来航に端を発した徳川鎖国政策の崩壊、開国か攘夷か、2つの相反する思想は次第に幕府の根幹を揺るがす政治闘争へと発展した。そして憂国の志士たちの秘めたる情熱が限界点へと達した時、それが「桜田門外の変」となったのである。

 安政元年(1854)のペリー来航以来、外圧に負けて鎖国の門戸を開こうとする井伊直弼など徳川幕府の譜代大名たち、それに異を唱えて尊王攘夷論を押し出した水戸藩主・徳川斉昭が対立。やがて井伊が大老に就任したことから、斉昭の一派は失脚する。井伊はさらに斉昭に賛同した各藩の藩士、公家を弾圧する「安政の大獄」に手を染めていくのである。この暴挙を食い止めるために水戸の藩士「鉄之介」たちは立ち上がった。
  ここから映画を見ているつもりで記して見た。
  安政7年(1860)2月18日早暁、水戸藩士・関鉄之介は家族と別れを告げ、故郷から出発する。1ヶ月前水戸藩の有志たちと徳川幕府の大老・井伊直弼を討つ盟約を結び、それを実行するために江戸へと出発したのである。大老襲撃は3月3日と決まり、鉄之介を始めとする水戸脱藩士17名と、薩摩藩士・有村次左衛門を加えた襲撃の実行部隊18名が集結した。

※薩摩藩「有村次左衛門」藩士が「井伊直弼」の駕籠を襲う所である。この後大老を引き出し、首を刎ねることになる。唯一の薩摩藩士。
※@×が襲撃現場である。杵築藩邸前、今の警視庁前。襲撃後ABCDEと動いて行った。近辺には藩邸が連ねている。

 そして襲撃の当日、品川愛宕山へ集結した鉄之介たちは、襲撃地点である桜田門へ向ったのである。襲撃者の一人が大老の行列に直訴状を差し出す振りをして、行列に斬りかかる(このあたりが映画では大変緊張する場面で雪の降りしきる中、直弼が門から出て来る所は見ていても緊張する。)斬りかかると同時に仲間が発砲した短銃の発射音を合図に、斬り合いが始まった。やがて有村次左衛門が大老の駕籠へ到達し、ついに井伊の首を刎ねた。そして持上げる。ちょっとリアル過ぎる場面だった。この斬り合いで、かなりの死者が出た。襲撃隊は闘死1人、自刃4人、自首8人。鉄之介は、この結果を見届け、京都へ向う。計画では大老襲撃は序曲に過ぎず、同時に薩摩藩が挙兵をして京都を制圧し、朝廷を幕府から守るはずだった。しかし薩摩藩内で挙兵慎重論が持ち上がり、計画は取り止めとなる。幕府側からは勿論、かつての同胞・水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は「桜田門外ノ変」に至る歳月を思い返すのであった。

 結局、最後は水戸脱藩士17名と薩摩藩士1名の18名は、闘死・自刃・自首・捕まった者は死罪となった。
 日本の将来を深く考え、命をかけて闘った結果ではあるが、悲しい結末となったのである。
 水戸藩は尊王を重んじる一方、御三家としてあくまで幕府を支える立場であった。幕府は朝廷を尊び、諸藩は朝廷から信任された幕府を敬うことで、日本を結束させることであった浪士が朝廷のために幕府に弓を引くことは、そのかたちを破壊することになる。だから「桜田門外の変」は、水戸藩の水戸像を破壊したことにつながったのではないか。
 この時代に与えた影響はかなりの衝撃であったと思う。昼間路上で堂々と大老の首を討つ、幕府の絶対的権力はゆらぎ、水戸浪士たちが「幕政を正す」ことであっても、許されることではない事件であった。
 映画桜田門の襲撃最後の場面。
 薩摩藩士有村次左衛門が駕籠から長裃姿の井伊直弼の髪をつかんで引きずり出した。このとき直弼は、短銃の銃弾が腰へと貫通しており、身動きがとれなかった。有村は直弼の首を打ち落とすと薩摩訛りで、「掃部頭の首を……」と絶叫し、直弼の首を刀の先に突き刺して肩に担ぎ、日比谷見附の方へ歩き出した。
 途中、直弼の御供目付役から、有村は後頭部から背中へかけて、全身の力をこめられ刀を受けたが、それでも有村は倒れず、直弼の首を胸に抱き、幽鬼のようによろめき歩いた。そして辰の口、三上藩遠藤家(×D地図襲撃後の動き)若年寄遠藤但馬守邸の前で有村は絶命した。(この辺が映画では実にリアルで紙面では表現が難しい)
 大老直弼の首は、井伊家の必死の探索により所在が判明、闘死した家臣の首として、遠藤邸から引き取られたのである。
 直弼はあくまで負傷として幕府にも屈けられ、お家断絶を免れている。
 この3月3日に大雪を鮮血で染めた大事件は、この事実から時代は大きく変って行き、わずか8年後、1868年、明治維新となったのである。とにかく維新前の日本の大変動がきわめてよくわかった。これが「桜田門外の変」の真相である。

平成22年11月21日 記


※一般的には「桜田門外の変」だが、映画の題名は「桜田門外ノ変」である。

参考文献
『歴史街道』PHP研究所
『日本史年表』岩波書店
映画(東映)「桜田門外ノ変」

 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2011