東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.131


奈良「東大寺と二月堂」
青木行雄

※正面から見た大仏殿、木造建築としては世界最大の建物である。正面の前に「八角燈篭」がない写真である(東京上野に出張中)。珍しい写真となった。

 奈良・平城遷都1300年祭は無事、平成22年11月7日で成功の内に幕を閉じ、一部12月31日まで継続した。
  入場者予定、250万人に対し、主催者側によると363万人だったと発表、大成功だったと思う。そして奈良の神社、仏閣の訪問者も大変にぎわったようだ。普段見られない所もかなり開放し、観光客を満足させた。又、平成22年10月には上野の国立博物館、平城館にて、「東大寺大仏 特別展」も開催され大変な入場者だったと言う。期間中東大寺の国宝も何点か奈良には不在で、上野で見ることが出来た。奈良に行っても見られないものが沢山あり感動だった。中には1年に1日のみの開帳、大変貴重な国宝の「僧形八幡神坐像」を見ることが出来た。又、平成22年に新聞、報道が紹介し話題になった、大仏の足元で見つかった国宝、「東大寺金堂鎮壇具」「陰劔」「陽劔」の文字がX線撮影で見つかったと言う「幻の宝剣」も見ることが出来、大感動の特別展だった。
 では現地奈良の東大寺と二月堂に行った時のことを記したい。

※僧形八幡神坐像。
1年に一度だけ1日開帳するこの仏像。見ました。東京会場で。貴重な写真です。「東大寺」蔵、快慶作、国宝。私はこの本物は二度と見られないと思う。
※二月堂の提灯。幻想的で神秘的な薄明りの寺内には人気がない。意外に不安を感じない回廊であった。

 平成22年11月近鉄奈良駅に着いたのは夕方暗くなりかけた時間だった。奈良公園に向って坂道を登り歩き始めた時、松林の中にシルエットのように動く動物が、車のライトや公園の薄明かりの中にかすかに浮かび上がった。最初はわからなかったが、それは「シカ」と、わかるまでに時間はかからなかった。そして、引戸を引くような「キー」と軋むような奇妙な声が聞こえた。それが「シカ」の鳴き声であることもすぐにわかった。
 私の旅館は公園内の松林の中にある(シカが旅館の庭内に入らないように柵がしてある。珍しい)。宿に着いて一段落してから、タクシーを呼んだ。公園の高台にある「二月堂」に行くためだ。人気のない山林を10分足らずで二月堂に着いた。昼間と違い夜の二月堂は人気がない。地元の2〜3人に会っただけで、大変静かだ。夕闇の中に浮かぶ二月堂の提灯は心にしみる。高台なので奈良の町並の光が飛び込んで来る。眼前に東大寺大仏の大屋根が黒くデーンと見えた。1300年の時を思うと又々表現に苦しむが、夢の時間をさまよっている気持だった。夜間の二、三月堂は私のおすすめコースである。幻想的な提灯は夜遅くまでついている。又、念仏堂近く国宝の鐘楼は大きくて見事だった。その後、今回の記事の予定にはないが、夜の興福寺ライトアップの「五重塔」も圧巻で幻想的で奈良に行ったら絶対に見のがせない場所でもある。
 今回のメイン記事は「東大寺」。翌朝秋本番紅葉の奈良公園の中にある東大寺、南大門大通りを通り、シカの写真をおさめながら入場する。報道にもあったが、現在シカの数約1,100頭。1年間に約100頭死に、約100頭生まれるから、1,100頭は維持しているとか。死因で一番多いのはビニール等のごみが原因らしい。至る所にシカの好物を客から貰うため、センベイ販売所近くに多く集まっている。かわいいかな、貰う前に頭を下げるシカが多いとか。公園内の草は伸びている雑草はなく、シカが食べてくれるから草は人の手入れはいらない。ただ時々農家の野菜を食べに行くシカがおり、捕獲しておりに入れるそうだ。人間の作る野菜はおいしいに決まっているから、一度食べたらくせになるようだ。シカが食べない葉は「アセビ」と「ナギ」。木の皮もそうらしい。だから春日山に一番多いのは「ナギ」の木と「アセビ」らしい。この木以外は皮まで食べるので金網をしている。又、燈篭に火を入れる祭事がある時、けっこう高いがそのおおう紙まで食べるそうである。しかし、シカは神の使いとされているので、害いがあっても粗末には出来ない動物である。

※南大門の木造建築。直径1mの丸柱18本で支えている大屋根。五間三戸二重門、入母屋造、本瓦茸、高さ25.46m、国宝。

 奈良県庁通りの大仏殿バス停から、土産物店など連なる歩道を進むと、正面に見えて来る巨大な門が、東大寺(金堂)の正門にあたる「南大門」である。幅29m、高さ25m、現存する門では日本一の大門であると言う。とにかくすごい門で圧倒される。なんとなく通り過ぎればそれでおわりだが、興味を持って見学すると先が知りたくなる。
 最初に創建されたのは、天平勝宝8年(756)から、6年がかりで建てられ、応和2年(962)に大風で倒壊した。そして再建されたが、治承4年(1180)の兵火で焼失した。現在の南大門は、鎌倉時代、正治元年(1199)重源の指示により中国の工人達で上棟されている。したがってこの南大門は800年以上前の大変巨大な強い木造建築の門と言うことになる。
 見ればわかるが、直径1m無垢の丸柱、長さ20m以上もあるものが18本、むき出して見られる。そして門の両側にある、金剛力士立像をちょっと説明しておきたい。
 よその寺でもよく見られる、寺の入口門の両側に立像等の像があるがこれは寺を外敵から守ると言う仏で、仁王像とも呼ばれている。口を開けた像のことを「阿形」、口を結んだ像を「吽形」と呼び、並んで安置されるのが普通であるが、この南大門の金剛力士立像は向い合っている。向い合うのは珍しく私はほかに見たことがない。
 この金剛力士立像は高さ約8m、総重量は6tを超えると言うすごい巨像で、国宝に指定されている、木彫像では日本で最大級の大きさと言う。
 もう少しこの像について説明をすると、あの鎌倉時代に寄木造の方法で制作されている事が上げられる。
 南大門が上棟された4年後の建仁3年(1203)に制作が始められ、わずか69日間で完成したと言うのだ。重源の命により制作を手がけたのが有名な奈良の仏師「運慶」がひきいる慶派一門と言う。
 この寄木造の方法は、複数の材を組み合せる技法で、大きな木材でなくてすむこと、分業が出来る、現場で組み立てるため、持ち運びが容易である利点がある。このような事で69日と言う短期間で出来たのであろう。
 「運慶」については、奈良が生んだ天才仏師で有名だが、特に運慶の作品は見事で感動を覚える。仏像は人間の姿をした人体彫刻であり、その背中、腰、組んだ手、人間を写実的に美しく表現する。ノミの手さばき、木のやわらかさ、髪の毛筋の一本一本、顔の表情、とりわけ額から鼻、くちびる、あごへと連なる線の見事なリズム感。運慶は目に見えるものを「ノミ」で再現する能力が優れている天才だった。こんな視点で木仏を見ると、又興味も湧くのではと思う。

※大仏殿内部の大仏。いつ見てもすごいと思う。この大仏の下に「幻の宝剣」がありました。
※大仏殿の内側。
柱の木が1本ではなく外側32cmが12本。23cmが16本の木を束ねて、鉄輪で組んでいるのが良く見える。
3回目の江戸時代に大きすぎて大木が集荷出来なかったのではと思われる。もちろん見えない中真の木材は使われているが、大きさはわからない。

 南大門に力が入りすぎたが、なんと言っても東大寺は「大仏殿」(金堂)である。
  南大門を抜けると、正面にデーンとそびえ立つ巨大な建物が大仏殿である。お寺の本尊を安置するお堂を金堂と言うが、東大寺では、盧舎那仏坐像を安置する大仏殿がそれにあたる。

 東大寺は、聖武天皇の発願で大仏の造立が始まったことによるお寺である。
  東大寺の大仏は、正式には、盧舎那仏、毘盧遮那仏と言い、古代インドのサンスクリット語のヴァイローチャナ仏を漢字にしたものと言う。意味は、「光輝く仏、世界をあまねく照らす」と、華厳経に説かれていると言うことである。
  天平17年(745)現在地に銅造の大仏が造られることが決まり、鋳造が開始されたのが2年後で、大仏が完成、盛大な開眼供養会が営まれたのが天平勝宝4年(752)である。
  大仏殿は創建時より、3回建て直し、治承4年(1180)と永禄10年(1567)の二度、兵火により被害を受け焼失した。そして江戸時代再々建の大仏殿が今見る大仏殿である。
  大仏様は被害を受けたものの、その都度鋳造、大修理された。一部は天平勝宝4年(752)1258年前の大仏様であり、見たり、説明を聞いたりしていると、なんとも大きすぎてこの世の出来事ではない思いがする。
  像高14.98m、台座高3.05m、顔高14.98m、目長1.02m、耳長2.54m。よくもこんな像が奈良時代に、しかも鋳造の技術があったのか等、考える。
  最近確認された、刀に「陰劔」と「陽劔」の字が発見。聖武天皇の遺品が発見された場所も見て感動した。
  あれやこれやと見ている内に時間はたつばかり。書きたい事は沢山ありすぎる。
  とにかくどでかい奈良の大仏様である。ついでに「日本の三大仏様」は、鎌倉の大仏、高岡の大仏(JR高岡の駅を降りると目の前に見える)、この奈良の大仏である。

 二月堂は東大寺の境内であり、二月堂は東大寺の御堂である。二月堂、三月堂、四月堂とあって、東大寺は広大な広さを有する。又、念仏堂の近くの鐘楼はすばらしく、鎌倉時代の入母屋造りの木造でこれも国宝である。又、梵鐘は東大寺創建時のもので、もちろん国宝であり、京都平等院、大津、園城寺(三井寺)の鐘とともに日本三名鐘と言われ、この東大寺の梵鐘は「奈良太郎」と言う愛称があるらしい。とにかくすばらしい鐘楼であり、梵鐘である。奈良へ行ったら見てほしい。
  あまりにも有名だが「お水取り」の名で親しまれている、修二会の舞台となるのが、この二月堂で、旧暦2月に行うことから、二月堂の名がついたと言う。
  東大寺の上院と呼ばれる東側のエリアのなかでも、最も高い場所に建つ懸崖造(舞台造)のお堂で(京都の清水寺)、もとは上院観音堂と呼ばれていたと言う。先にも書いたが、大仏殿の大屋根を見下ろし、市街を一望にする眺望はすばらしく、夕闇が迫る頃や、夜景も目を見はる程すばらしい。

 修二会(お水取り)は、東大寺を開いた「良弁」の高弟である「実忠」が、天平勝宝4年(752)に始めた。以後今日に至るまで欠かすことなく行われていると言う。このお水取りは東大寺を代表する年中行事であり、なんと今年で1259回目になる。
  正式には「十一面悔過」といい、十一面観音の前で、日常の過ちを懺悔するものと言う。ひいては天災や疫病、戦いなどの病を取り除き、国家の安泰と人々の幸せを祈るという意味があるらしい。旧暦の2月の行事であることから修二会の名がついたと言うが、現在では3月1〜14日の2週間にわたり、さまざまな行法が行われる。
  あの「お松明」の二月堂はあまりにも有名になった。
  詳細についてはまたの機会にするが、日本を代表するこのどでかい大仏殿、東大寺は何回行っても見きれない。勉強になり、新しい発見が沢山ある。そして大感動する。感謝。

平成23年1月9日 記


参考文献
東大寺「歴史と美術」大仏奉賛会
『日本史年表』岩波書店
東大寺大仏 天平の至宝より

 

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