東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.135

大震災の宮城県「石巻」の現地を視察
平成23年5月8日(日)
青木行雄

※3月11日大震災による運休の東北新幹線が開通した月日です。東京から新青森まで4月29日復旧した。(『朝日新聞』より)

 東北新幹線が4月29日、東京と新青森を結ぶ全線で運転を再開した。
  東北自動車道、仙台空港に続く大動脈の復活を大いに利用して、行き来につなげる必要がある。そしてJR東日本には、停電による不安定な運行状況を東電や東北電力との話し合いによりぜひ解決してもらいたい。東北に活力が出るには人の交流が一番で早急な交通機関の整備も欠かせない。
  東北は、これから美しい季節、花・新緑と見頃を迎える。例年なら観光客で賑わうが震災後の自粛ムードが影響し、旅行客は大きく減った。もちろん交通機関のせいもあるが、震災の他に原発の事情も大きい要素である。
  しかしこのままでは地域全体の元気が出てこない。幸い新幹線も全線開通した。被災地の現実を自分の目で見ることも大切な事と思った。
  その後約2ヶ月近くたった今、自粛ムードだけでは経済がもたないので、平常心に帰り旅行もおおいにした方が良いと今は言われている。しかし現況を見ることが先決と出かけたのである。
  やっぱりテレビや新聞で見るだけでは、本当の現実はわからない。
  行こう行こうと思いながら新幹線の運休もあって行けなかったが、4月29日開通し行けるようになったので出かけてみた。
  東京から仙台まで新幹線約2時間20分。海岸を通ると言うから仙台から仙石線に乗ったが、13駅目の東塩釜駅で降ろされ、JR代行バスに乗り換えた。そして約1時間40分かかったが「石巻駅」に着いた。仙台から約2時間かかった。駅には運休の為電車がホームで約2ヶ月動いていない。

※「がんばろう!石巻」の看板が痛ましい。仙台行のバスに並ぶ乗客。石巻JR駅前。開通はいつのことかわからない。
※日本製紙の工場内JRの車両が傾いている。レールは剥ぎ取られていた。
※ガレキだけは整理された合板工場の内部。天井まで津波が入ったのではと思われる。散乱したベニヤを集めて少々積まれている。
※前方に見えるビル3階建。小学校らしい。すべて3階までガラスがない。津波はここまで到達したのだろうか。この丘の上の建物は全く別世界。天と地獄の差と言えようか。
※ちょっとした高台から写す。ガレキの山。車の鉄板は赤錆びがひどい。見るも無残である。この下にまだ何人かいるのでは。
※ガレキの山が酷い。道路だけガレキは整理してあるが、やっと通れるだけだ。この中にも何人か人がいた。近親者を探しているのであろうか。

 JR石巻駅前からとにかく現地を見たいと思い、タクシーに案内をお願いした。駅から海岸は小高い丘を越えて向こう側と言う。約7〜8分走った辺りから、大震災の爪跡が目に飛び込んで来た。丘から見下ろす惨状は言葉では言い表せない程の無残さであった。確かにニュースやテレビで見るそのものだったがこんなに酷いとは実は思っていなかった。石巻の港の工業団地は日本でも有数の広さがあると聞いていたが、その広大な広さの工業団地はほとんどが津波にのまれたと言う。約2ヶ月たった今も「ガレキ」の整理が少し進んでいるものの手がつけられない程の惨状である。中でも広大な広さを有する日本製紙の大きな工場はJRの引込線まである。倉庫も工場も見事に津波の影響を受け無残だった。また近くに西北の工場、石巻合板の工場、その他木材工場も建物だけは残っているが、工場内は散々たるもので「ガレキ」こそ大分整理されているようだが、見るも哀れな状況と言える。津波の高さは想像は出来ないが20m以上はあったのではと思う。またこの工業団地内に住宅街があったと言うが、そっくり家と共にもって行かれ「ガレキ」の山がそちこちに残っている。火災も発生したと聞いたが、黒こげの車やガレキが目立ち、60日近くも経った今鉄板等は焦げ茶に錆びかけていた。この目で見た状況をペンで表現するのは実に難しいが、5月7日までに新聞の報道を見ると宮城県が死亡8,907人、行方不明者が5,978人、避難している人35,538人と最も他県より多く、その内石巻市が死亡2,933人、行方不明者2,770人、避難者9,690人、住宅全壊2万800棟と最も多い数字である。石巻のこの港の工業団地は広大な面積だったと言うし、そして大きな住宅街があった。その街がそっくり、その為に多くの犠牲者が出たのであろう。なんとも痛ましい出来事であった。
 今後の復興の課題は、なんと言っても沿岸部を中心に散乱するガレキの撤去である。宮城県内で今回のガレキの出た量は推計約1,800万トン、例年ごみなどの一般廃棄物は年間80万トンと言うからすごい量である。
 新木場もこことは比較にならないが、土砂の出た量5,000トンあまりと言う。大型ダンプ8トン車に換算するとなんと600台にも及ぶのだ。地震の被害はむしろ旧市内の石巻より浦安の方がひどいのではと思われる。津波さえなければこんな事にはならなかったと悔やまれる。

天皇、皇后両陛下の大震災への思い。
  天皇、皇后両陛下が、東日本大震災の被災地に思いをはせて、お住まいの皇居・御所の電気を一定時間使わない「自主停電」を続けられていることがわかった。「国民の困難を分かち合いたい」という趣旨で4月15日に始められたと言う。宮内庁の羽毛田長宮らによると陛下は「寒いのは(服を)着れば大丈夫」とおっしゃっているという。
  両陛下は計画停電で「第1グループ」に分類された地域の停電時間に合わせ、1回約2時間に亘り、明かりや暖房といった電気の使用を一切控え、時にはろうそくや懐中電灯を使いながら過ごされているという。暗い中で夕食を取られることもあったようだ。
  両陛下は、第1グループで停電が計画されたものの、実際には電力供給が逼迫せず、停電がなかった日も、当初の計画時間に合わせて同じ日に朝晩2回、電気を止められた日も複数回あったという。宮内庁東宮職によると皇太子ご一家も、同様の「自主停電」をお住まいの東宮御所で行われているという。計画停電では、皇居のある千代田区は対象地域になっていない。涙の出るような話である。
  人は、力ずくの命令では決して動かない。どんなに圧力をかけられ、押し付けられても『北風と太陽』のごとく、ますますマントを着込み襟を立てるだけである。しかし、ぽかぽかと春風のようなやさしさや、思いやりが伝わると、自らマントを脱ぎ捨てる。
  この度、両陛下は、3月30日の足立区を皮切りに、埼玉県、千葉県、茨城県と毎週1カ所のペースで避難所や被災地を歴訪しており、4月6日岩手県入りをした。歴訪する先々でやさしい笑顔の両陛下のニュースを見るたび、日本に皇室があって陛下がおられて良かった、ありがたいとつくづく思う瞬間である。

 陛下のやさしい心づかいには頭が下がり、日本人で良かったと思う所である。
  陸前高田の高田松原では2キロにわたって植わっていた7万本もあったうちの1本が生き残ったと言う。高さ30メートル、樹齢250年を超える老松である。「奇跡の一本松」と呼ばれているそうである。この松はまだ見ていないが。
  「百聞は一見にしかず」と言う諺がある。石巻の現地を見て考えが変わった。自粛ムードだけでもいけないと思うが、あんな悲惨な目にあった人が多くいることを忘れてはならないとつくづく思った。そして自分達の幸せを今改めて考え直し、反省し、亡くなられた人達へのご冥福とこれからの少しでも早くの復興を願うばかりである。
  「ケッパレ」東北。

※広大な 工場群の 石巻
 なんとあわれな がれきの山々

※でこぼこの 道の両側 家こわれ
 がれきの山に かたずむ人々

※石巻 港のがれき 見るにつけ
 津波のはげしさ 見るも無残に

※無残にも がれきの山が ものすごい
 かさなる車 いたる所に

 『朝日新聞』の中にこんな句があった心を打たれたので記した。
   1.「生きていて 生きてるだけで つばめ来る」
   2.「何事も なかったように 波がよせ」
   3.「被災地に そしらぬ顔で 桜咲く」

※『朝日新聞』平成23年5月7日号を記載させて頂きました。実に痛ましい事です。

平成23年5月8日 記


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