東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.137

東日本大震災、塩釜と松島海岸へ
青木行雄

 私の友人に勉強家で、木材に詳しく、住宅関係の本まで出版し、プレカットの工場も経営している、大変尊敬するNさんがいる。
 毎月発行される問屋組合の月報を送らせて頂いておりますが、いつも必ず感想評等頂き、返事をいつも大変楽しみにしています。
 No135号「大震災の宮城県『石巻』の現地を視察」(平成23年5月8日(日))についてNさんは次のような「ブログ」をネット上に掲載されたので原文のまま記させて頂きました。
 「お早うございます。
 お友達というにはおこがましいのですが、Aさんは実に好奇心旺盛にして、行動的な人です。
 このブログでも以前、『江戸城再建を目指す会』を取り上げました。
 毎月、木材組合の月刊誌に旅行記等を寄稿されて居ります。
 今月号には『大震災 石巻視察』の報告です。文中『テレビや新聞で見るだけでは、本当の現実は分からない』『確かにニュースやテレビで見るそのものだったが、こんなに酷いとは思っていなかった』と書いておられます。
 現地に立てばそれは匂いだったり、騒音だったり、埃だったり、お茶の間で見るテレビ画面の違いだろう。
 言ってみれば、テレビは遠くの出来事であり、現場に立つ臨場感の違いだと思います。
 ある避難所の責任者は、ボランティアの人が『何をしたら良いのだろう』の問いに、『この現状を見てくれるだけで十分だ』と言われたそうです。
 ただの話でなく『体験として語り』が、より大きな説得力となることを言ったのだと思います。
  この好奇心と積極的な行動力がAさんのお仕事でも充分に発揮されているのだと、改めて敬服いたします。」
 こんなお褒めの「ブログ」大変恐縮している所であるが、現地を見て被害者の事を思うと心が痛みます。
※仙台駅の近くの広場に出来た仮設ハウス1棟に5所帯、何百棟かわからないがかなりの数である。。
※塩釜の海岸、かなりひどくやられているが瓦礫整理はかなり進んでいた。津波の爪痕である。
※東塩釜港、瓦礫はかなりなくなっていたが、丘の上に船と車が無惨に残っている。
※塩釜神社の本殿。かなりの揺れはあったと言うが、損壊の話は聞かなかった。大変広い場所だった。
※松島海岸、海岸の床下2メートル浸水したと言うが観光用の土産等はかなり流された。むこうに観光船が営業中だが客は少ない。
※瑞巌寺の入口、両側の店は奥の左側が1店舗営業中だった。人気(ひとけ)も少なくさびしい5月29日の日曜日である。
※瑞巌寺の参道、この中にもかなり奥まで瓦礫が進入。瓦礫の処理は大変だったと管理人が話していた。被害が少ないのは260余島の島のおかげか。

 5月29日(日)に5月8日に行った時下車出来なかった塩釜と松島海岸をもう一度現地視察したいと思い再度行って来た。
 そもそも過疎の町に地震と津波の襲来である。津波で押し寄せた瓦礫は市や町で、処理はしてくれるが個人の家は自分でやるしかないのか。又住んでいない家も多くあるようで、被災したまま2ヶ月以上過ぎたのに全く手が付けられていない。この様子だと何年たっても復興は出来ないのではと思う。
 仙台駅の近くの広い空地に仮設ハウスが何百棟もみえたが人気(ひと け)がなかった。海岸の津波による被災地まで30?40分はかかる場所に立派なハウスを建てるより、津波にあわなかった近くの空家や住宅に補助金を出し住めるようにして住ませた方が何倍か安く、住みよいのではと思った次第である。空家はなんぼでもあるようであった。
 海岸の瓦礫は一部を除きほとんど整理され、かなり更地になっているが、残った建物はそのままであった。特に個人家は全く手つかずである。
 塩釜と言えば、東北鎮護・陸奥国一之宮として有名な「塩釜神社」がある。当神社の創建はあきらかではないと言うが平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂された「弘仁弐」に「監釜神を祭る料壱万束」と記され、厚い祭祀料を授かっていたとされる神社で陸奥国一の神社、奈良時代国府と鎮守府を兼ねた多賀城が当神社の小高い丘に設けられ、その精神的支えとなって信仰されたと言う由緒のある神社であるらしい。
 その小高い丘の下の方まで津波が来たと言うが神社に被害はなく無事であった。しかし、塩釜港に停泊していた船はすべて流されたり、陸に打ち上げられたり被害があったと言うが、神様をのせる船だけは無事だったと言うから、見えぬ神力があったようである。
 その神社にお参りして早くの復興をお祈りした。
 塩釜から電車で2つ目の松島海岸には電車が開通していたので電車に乗って行った。以前5月8日にバスで通った時は車中から見る限り被害はたいした事はないと思ったが、実際降りて話しを聞いて見るとやはり大変だったようである。海岸沿いの道路より2mぐらいは津波による浸水被害があり、瓦礫の山だったと言う。海岸の観光店には浸水による被害が多くまだまだ何軒か数える程しか営業はしていない。瑞巌寺の入口の両側店も営業は1軒しかしてなく、さびしい松島海岸であった。観光船は運行してはいるが、29日は日曜日と言うのに客も少なくやっとなんとか維持していると言う感じだ。瑞巌寺の参道はかなり長く平地と思ったが入口と奥は3?4m位高くなっており、津波の水は奥まで届かなかった。参道はゴミの山で除去には大変苦労したと寺守は嘆いていた。
 260余島があると言うこの松島海岸、津波による家屋の全壊は少なかったようで死亡2人、行方不明2人と他の地域と比べて少ない。1階まで浸水の被害は数えきれず、復興には何年かかるか分からない。お見舞申し上げたい。瑞巌寺は修復工事中で屋根瓦をおろしており、津波もなく、地震で壁の一部崩落・亀裂程度で済んだのは幸いだったと思われる。
 知人の店が瑞巌寺の入口で観光店をやっていたが様子を見て来て欲しいと言われて行って見たが、シャッターが降り電話も出なかった。古い木造の店舗で、横には高さ4mもあろう樹齢何百年の枝ぶりの良い松の木が塩水をかぶった為か、枯れかけていた。店内の浸水も被害が大きかったのではと思われ、早く再建して欲しいと願い帰って来た。
 刻々と状況は変化していると思うが、今一番活気のある所はどこか、と言ったら、私は一番に「仙台駅」と言いたい。
 東北の玄関口仙台は新幹線が開通し、本格的とは言えないが駅周辺に集中して人が集まっている。駅周辺のホテルはいつも満室で週末は大変予約が取りにくいと言う。仕事、ボランティア、震災の関係者、親戚、縁者等で駅周辺は大変活気がある。本格的な復興はかなり先だと思うがこれから先、東北、東日本にかなりの人力が集約されるかも知れない。

 津波で流された岩手県陸前高田市の高田松原の流された松を薪にして、京都の8月の風物詩「五山送り火」の1つ「大文字」でたかれることになったと言う。薪には、被災者が犠牲者の供養や復興への祈りを込めて言葉や名前を記すと言う。少しでも供養になればうれしい。それにしても陸前高田のたった1本残った「奇跡の1本松」が枯れかけている話を聞いたが、なんとか生存して欲しいと祈るばかりである。

平成23年7月10日 記

出典:「河北新報」http://www.kahoku.co.jp/news/(2011/7/20アクセス)

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