東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.141

熱海「起雲閣」の歴史
青木行雄
※「起雲閣」の正面玄関。大正8年に建てられた純日本風の玄関。当時、海運王として知られ、鉄道大臣となった内田信也の別邸である。
※茶人としても知られた根津嘉一郎が自ら采配を振るい造った庭園で一千坪あるという。手入れがすばらしく、散策も出来る。
※「麒麟」の間の床の間である。カラーで見られないのが残念だが、ウルトラマリンブルー色であり、見事な色であった。
※座敷の周囲を畳廊下で囲んだ「入側造り」ですばらしい「木造建築」の廊下である。こんな廊下に囲まれた部屋が欲しいと昔は夢みた時もあった。ガラスは波打った大正の波ガラス。
 

 熱海市の指定有形文化財として市の所有の「起雲閣」を探訪して来た。近くて便利の良い熱海にはよく行くが、寄り道をせず真っすぐ帰る事が多かった。知人に誘われて「起雲閣」を見学したので是非記して見たいと思った。
 なんと熱海市の中心部に立地し、熱海駅から徒歩20分程にある。温泉街の中で緑豊かな庭園を備えた三千坪におよぶ敷地である。大正・昭和の浪漫を残す建築様式で、数多くの文豪たちにも愛されたと言う名邸。熱海の文化遺産として、永存しようと言う建築物である。
 歴史的和風木造建築に興味があって、日本の文豪達の歴史的浪漫を求めたい方はわくわくするような部屋が数々あった。
 「起雲閣」の歴史について先に記して、後に「文豪」の話を書こう。

「起雲閣」は、1919年(大正8年)、海運会社などを経営して富をなし、一方で政治家としても活躍したと言う内田信也氏が母親の静養の為に建てたと言う別荘である。門構えの「正面玄関」とすぐ入った所の「麒麟」「大鳳」の間と離れの「孔雀」の和風の建物2棟が大正当時の建造物と言われる。

 1階の「麒麟」の間は、天井が高く二段の長押、四方柾の柱で、大きくゆったりとした床の間、開放的で余裕のあるかなり質の高い部屋である。座敷の周囲は畳廊下で囲んだ「入側造り」で、母親の静養のため建てられた。この時代の木造建築の粋と言えそうだ。2階の「大鳳の間」も基本的には1階と同じである。
 1925年(大正14年)には、内田信也氏が鉄道会社など多くの会社を経営する根津嘉一郎氏へ譲り渡している所を見ると僅か6年余りの所有である。
 根津嘉一郎氏が買い取ってから、別荘として「玉姫・玉渓」、「金剛・ローマ風浴室」の2つの洋館を増築し、庭園を現在の姿に整えたと聞いた。
 大正の後半にこれ程の洋風建築は、かなりの金と情熱が感じられる建物である。この庭園で、文豪の谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三が並んで写した写真が見られた。その中庭が又1000坪程あってすばらしい庭園であった。
 起雲閣の改革の歴史を最後まで先に記してから文豪の話に移るとする。
 1947年(昭和22年)まで東武鉄道の根津氏側の所有であったが、金沢でホテルなどを経営していた桜井兵五郎氏が買い取り、「起雲閣」と名付け高級旅館を開業した。そこで日本を代表する有名な作家達が宿泊したりしたのである。そして映画の撮影や将棋・囲碁の有名対局などにおおいに利用されたのである。
 1947年(昭和22年)から1999年(平成11年)まで半世紀、52年間、熱海の高級旅館として、その名を高め維持して来たが、1999年(平成11年)時代の流れには対応出来なかったのか、廃業となった。そして2000年(平成12年)、熱海市が取得、市が文化観光の拠点として「起雲閣」が開館。2002年(平成14年)「麒麟・大鳳」の棟他3棟と「表門」が熱海市指定の有形文化財となり、現在展示室やギャラリー、音楽会等が行なわれてその名を維持している。

 「起雲閣」の建設に関与した3人の実業家、政治家等の人物を紹介する。
 初代の「内田信也」氏
 1880年(明治13年)12月6日生まれで、大正昭和期の政治家、実業家で茨城県生まれ。
 三井物産を経て、内田汽船会社を設立、第一次世界大戦の戦争景気で財をなす。
 1924年(大正13年)、立憲政友会から衆議院議員で当選9回の実績、岡田啓介内閣の時、昭和9年7月8日、鉄道相就任で政友会を除名され昭和会を結成、1944年(昭和19年)東條内閣の時、農商相に就任している。戦後公職追放。第5次吉田内閣の時、農相だったと言う。1972年(昭和46年)1月7日没、91才であった。

 2代目「根津嘉一郎」氏
 1860年(万延元年)6月、山梨県で生まれる。
 20才で上京、漢学者馬杉雲外に入門。帰郷後共愛社を設立。1904年(明治37年)衆議院議員となる。1905年(明治38年)東武鉄道社長となる。1926年(大正15年)貴族議員、1929年(昭和4年)国民新聞社社長。同年東武日光線を開通させ、鉄道王と呼ばれた。
 実業では他に東京商工会議所顧問、太平生命保険、南朝鮮鉄道、昭和火災保険、日光自動車電車、東京地下鉄道、富国徴兵保険、帝国石油、日清製粉などの各社長を務めた。武蔵高校を設立。没後、根津美術館が設立された。嘉一郎氏は1940年(昭和15年)没。79才だった。

 「起雲閣」3代目「桜井兵五郎」氏
 1880年(明治13年)8月石川県生まれ。大正、昭和の政治家、実業家であった。衆議院議員当選9回である。立憲民政党政調会長、同幹事長等を歴任し、1945年(昭和20年)鈴木内閣の時国務相に就任した。この2年後1947年(昭和22年)にこの「起雲閣」を購入し、高級旅館「起雲閣」を開業している。
 戦後は進歩党所属、ほかに北陸毎日新聞等の社長を務めている。

※左から山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎。この中庭に並んで写った写真は豪華な顔ぶれである。すごい写真だと思う。
※文豪3人が並んで写った場所が中央の芝の上あたりである。背景にビルが見えるのが大変残念だが。1000坪の庭は手入れが行き届いて立派であった。

 昭和22年旅館「起雲閣」となってから、この高級旅館と文豪との付き合いが始まるのである。
 そして、1948年(昭和23年)3月15日「玉渓」に滞在中だった山本有三と当時熱海在住の谷崎潤一郎、志賀直哉の3人で対談をこの「起雲閣」で行った時の貴重な写真があった。興味があれば、わくわくする写真である。その時の庭が整備され、今もそのまま残っており、同じ芝生を踏むことが出来る。
 この文豪の中で一番の先輩が志賀直哉で1883年(明治16年)生まれ、代表作は『暗夜行路』『城の崎にて』他で1949年(昭和24年)文化勲章を受賞した。3人の文豪では1番長生きで、没は1971年(昭和46年)の88才だった。
 次に谷崎潤一郎は3つ下の1886年(明治19年)生まれで、有名な代表作に『細雪』『新釈源氏物語』等がある。志賀直哉と同じく1949年(昭和24年)に文化勲章を受賞した。そして1965年(昭和40年)79才で亡くなっている。
 そして次が山本有三で3人では一番若く、1887年(明治20年)生まれ。この「起雲閣」に滞在し執筆した。代表作に『路傍の石』『真実一路』などがある。1965年(昭和40年)文化勲章を受賞した。
 山本有三についてはちょっと今回の本文と本筋がそれるが、有三の生れ故郷栃木に行った時に聞いて思い出した小説の一節を記してみたい。

たったひとりしかない自分を
 たった一度しかない一生を
  ほんとうに生かさなかったら
   人間生きてきたかいがないじゃないか

 こんな事を考えながら、16年間にわたり、毎月『月報』に書き続けさせてもらっている。感謝。

 その他起雲閣ゆかりの文豪を記して見るが、いずれも皆、「起雲閣」が高級旅館として開業してからである。
 1947年(昭和22年)1月桜井兵五郎氏が購入し、10月旅館「起雲閣」が開業して、文豪界でもこの旅館が有名となり、著名人が次々に来泊した様子が見受けられる。
 前記3文豪の他に太宰治は1948年(昭和23年)3月7日から、起雲閣別館に滞在し『人間失格』を執筆したと記録されている。
 外に舟橋聖一や武田泰淳等も度々滞在し、執筆したと言う。
 それに三島由紀夫は新婚旅行で「起雲閣」に宿泊したらしい。

 1947年(昭和22年)、桜井兵五郎氏が「起雲閣」を買い取って、高級旅館を開業するにあたって氏の出身地が石川県であった事から、加賀藩が格式の高さを表現するために使用したと言う、天然巌料ウルトラマリンブルー色の壁に仕上げた。以前に使われていた、砂壁の上にこのマリンブルーの壁を仕上げ、一層高級に見える麒麟の間に仕上げたのである。又各部屋ごとに趣向をこらし、それぞれ変化をもたせ、高級旅館として高貴な雰囲気を出し続けて半世紀、52年間、数々の文豪、囲碁十段戦、映画撮影や多くの政治家財界人等上級階級の宿泊場所として使われて来た。木材業界でも高齢の方で様々な役員をされた方は泊られた経験があるらしい。その高級旅館が時代の流れには勝てなかった。そして2000年(平成12年)熱海市が買い取り、この日本独自の美しい木造建築、和風、洋館、多くの樹木や草花が茂る庭園を熱海の歴史を象徴する、この「起雲閣」が保存公開された事に称賛を送りたい。同時に、この木造建築を見ていない人に見る事を是非進めたい。
 このように文化的に貴重な木造建築が少なくなっては来たが、まだまだ探せば残っている。その貴重な建造物を今こそ保存に力を入れなければならない時である。国、県、市町村等が力を入れ存続してほしいと思う。

平成23年10月30日 記

※起雲閣 薬医門(熱海市の有形文化財)
 鎌倉末期〜室町初期の武家又は公家の屋敷などに現れた門形式の一つ。
 医師の家の門として使われ、病人の往来を妨げないように門扉は設けないものとされましたが、実用面から扉を設けるようになりました。

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