東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の87 「折紙・パートII」「代付」(価格設定)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 この代付、即ちプライス(価格)を決めると云う事は、昔も今も、てぇ〜へんに難しい!。
 雑音に捉われず、バシッと決めねばならねえ。其のためには雑音の上を行かねばなんねえ、さすれば、自然とブッブッの不満は消えて行く。その点、本阿弥家は偉かった、鑑定には刀剣のプロである12軒の分家が全員一致で合意しており、大名と云えども寸分も口を挟め無いスタイルを構築したのは天晴れでご猿った。その為には名刀の番付表を作成して有り、最上ランクの献上用から家来に下げ渡しの恩賞用まで、かなり細く仕分をしております。
御物 短刀 銘 吉光(名物 平野藤四郎)
国宝 短刀 無銘 正宗(名物 包丁正宗)
金象嵌銘 義弘本阿(花押) 本多美濃守所持(名物 桑名江)

 因みに、トップは武士が発祥した鎌倉時代より「名物」として天下にその名を轟かせた三作の粟田口藤四郎吉光、相州正宗、越中郷義弘、や天下五剣の、鬼丸国綱、大伝多光世、童子切安綱、三日月宗近、数珠丸恒次、等ですが、加えて享保四年(1719)に文武両道の八代将軍徳川吉宗が本阿弥家十三代の光忠に命じて全国の名刀のリストを撰上させました。これが一般に「享保名物牒」と云われている刀剣書ですが、これに載っている物に限って、「名物」と称する事が許され、以来、名物と言えばこのリストの掲載の刀剣ダケとなります。
 名物はその品格の優れたる事は勿論ですが、由緒や伝来もかなり重要視されております。
 又、時代は平安から南北朝迄で室町や江戸期の物は含まれません、薙刀・槍・剣も除外です。
 名物の数は168口あり、他に80口を加算していますが、これは焼身になつた旧名物等です。
 この168口の内、その後に50余口が大震災や第二次大戦で焼失したりして行方不明で、今は大体100口位が現存していると云われております。
 その内の大口の所有者は、御物(宮内庁)10口、徳川黎明会15口、東京博物館9口で
後は60人程の愛刀家と2〜3の社寺の許に保管されていて、滅多に市中には出て来ません。
 刀に代を付ける事が何時の時代から行われたかはハッキリしませんが、延徳弐年(1490)八月日の長船忠光の刀には「代千疋」とあり、勝光の脇差しにも「代五貫文」とあるが、これは代づけというよりも正札と見る方が正しいかも知れません。
 ○貫文と云うのは銭のことであり、元来は唐の初鋳の開元通宝の一文の目方が一文目であったので、一貫文は一千文の事である。一疋も銭のことで二十五文であるから一千疋は二十五貫文になる。これ等によって室町当時の刀剣の価格がほぼ推定されるが、天正19年(1591)の「諸国鍛治打代付の事」に因ると、最高が百貫で、宗近・吉光・国綱・行平の四工が載せてあり、五十貫は正宗だけで、その子の貞宗は三十貫で備前の則宗・光忠と同様である。大和の当麻が二十貫、相州の秋広が十五貫、尻懸則長が十貫となっているが、鎌倉以来の大名物である「大般若長光」は六〇〇貫との跳び抜けた代付けであった、大般若の異名は大般若経の経巻が六〇〇巻と言う所から、付会されたもので如何に破挌の代付けだか判る。  
 その昔、徒然草に…坊を百貫で売り…とあるので、当時の豪邸六軒が買えた価格でご猿。

太刀 銘 長光(名物大般若長光)

 室町時代迄は折紙も全て貫の代付けであったが、江戸時代になると貫の他に金が加わる。金貨の流通は桃山時代から段々と増えて来ており、折紙にも金何枚という紙が出て来た。金一枚は大判なので小判で10枚(十両)、一両の半分は二分だから四分で一両という訳なり。又、貫と金とを換算する場合には、二十貫で大判一枚だから、百貫なら大判が五枚でご猿。
 尤も、金50枚とするより千貫としたほうが聞こえが良いと云う場合は貫にした様です。

 尚、前掲の名物の平野藤四郎吉光(短刀)は「不知代」となっておりますが、これは代付けが不明と言う事では無く、「ナンボするか判らない」と言う事で、何本かこの手の物がご猿。これと同じく、名物の不動正宗や本庄正宗などに「無代」と言う物もありますが、これも「タダ」と云う事では無く、「とても代付けなどは出来ない、て〜へんな刀」との意味です。又、「御物」は今も昔も価格の表記は恐れ多くて致しておりません。昔、民間の物でもです。

刀 光世 (附)本阿弥光常折紙
短刀 無銘 伝貞宗 
        (附)黒呂色塗鞘合口拵
            (附)元禄十一年本阿弥光忠折紙
 
 

 為らば、代付けの最低金額はと申しますと、金三枚(三十両)以下は折紙形式では無くなり、別掲の小札となります。四枚は「シマイ」と読めるので避け、五枚から付けておりますが、八枚もシマイ×2なので避けております。

 尚、小札とは折紙に次ぐ鑑定書で、奉書紙を上は七分二厘(2,1cm)下は1寸五分四厘位に斜めに切った小さな札で、表の半分に刀銘と代付を書き、裏に干支を書き本阿弥の角印を押した物です。これは観世撚りの紐にして、刀に付けていたので「下げ札」とも呼びます。 
 この下げ札も合議にて決めておりますので、折紙と変わりはありません。便利な物でご猿。



宗光と清光の小札
  

 併し、これはオフレコですが、「名物に旨いもの無しアキの空」?の伝で、刀剣もかなり 古い物はベコベコでとても使い物にならない迷刀がゴマンと御座います。この様な名刀は戦後の一時期と阪神淡路大震災の時に京都の公家や芦屋や西宮の旧家からタント出まして、東京の刀価を下げた事がありました。特に名門の公家より出た物は能書きばかりが多くて現物が伴わない、と言うのが多く今も定説になっています。

  

 幕末の京都の棒手振り(行商人)は生ものの売れ残りが出ると岩倉村まで飛んで行って、自宅を徒場に貸していた公家に捨て値で押し付けた。と言う話が伝承として残っています。そのツケにした代金は公家が維新の元勲として公爵に出世した後も、其の儘で結局は踏み倒されたとの事であります。どうもこの元勲の末裔はDNAの所為かその後も詐欺を働いて新聞種になったりして世間を騒がしております。

 尚、新刀の「無銘物」は本来が有り得ない事なのですから、この点を注意をして頂きたい。
 「虎徹」等の大銘物はそれこそ「浜の真砂」程ござんす、「コテツだ!、安い!」と思って手に入れた迷刀は100%ダメでしょう。この手の話は「安い」はイケナイ、「高イ」はグー。 
 
 ところで、江戸期の貨幣価値を申し上げて見ますと、かなり変動が激しいので驚きます。一両小判は通期では10回も改鋳されているため、時によって金の分量も変わりますので、判り易く、一両で買えたコメの量で申しますと、徳川幕府の基礎が出来た、慶長11年(1605)431キロ、元禄13年(1700・五代・徳川綱吉)75キロ、享保15年(1730・八代・吉宗)240キロ、幕末になると何と慶応元年(1865・十四代・家茂)約37キロとなり、元禄時代の半分でご猿。
 慶長11年は一両の価値は13万2107円。慶応元年では1万1217円ですので江戸期の
260年間で118%の物価上昇です。
※ 現在価格(特定標準価格米)10キロ3065円(袋代込)での計算です。

次回は刀剣の偽物についてお知らせ致しましょう。

古埋忠鐔 花筏の図 桃山時代

 


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