東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(62)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 江東区内にある清澄庭園は、かつては紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと云われておりますが、明治維新後、三菱グループを創設した岩崎弥太郎が所有し、関東大震災で被災した際、東京都が買い請けて整備し、今では江東区民をはじめ、多くの人が散策に訪れる憩いの場となっております。庭園の池に浮かぶように建てられている涼亭で、今は故き下町タイムスの今泉さんが同好の士を集め、太鼓持ち悠玄亭玉介師匠の芸を楽しんでおりました。以下はその触りです。
 「ある日、お月様とお日様と雷様が三人連れ立って旅に出ました。宿屋に泊って翌日目を覚ますとお月様とお日様が居りません。雷様が宿の女中さんに訊きますと、『お二人はもうお出掛けになりました』そこで雷さん、『月日のたつのは早いものですなあ』」
 この話には続きがありますが、当社が深川から新木場に移転してから早いもので三十年になります。当初は荒涼とした埋立地で、交通機関は東西線東陽町駅からバス便しかありませんでした。ところが今では高速湾岸線道路が開通し、鉄道はJR京葉線、地下鉄有楽町線、りんかい線が開通、新木場駅は交通の要衝となりました。当社の前は曙運河があり、かつては長い筏の列が上って行く風景もあったが見られなくなり、今は野鳥の楽園となって、冬になるとゆりかもめ、野鴨、川烏がやって来て羽を憩め、晴れた日は遠く富士の秀麗を拝むことが出来ます。
 今回は東京湾の今昔を探訪し併せて将来を展望します。
 東京都港湾局発行の大冊『図表で見る東京臨海部』を繙いてみますと、江戸城を中心として東京は大きく発展して来たことが解ります。都心を中心に円を描きますと、東南に当る4分の1が海であり、当然ここを埋め立てないことには、交通、物資の流通に支障が出て参ります。1592年(文禄元年)徳川家康が入府して先ず日比谷の入江を埋め立てたのは先見の明があったと云えます。以来、1596年(慶長元年)江東区清澄、白河、扇橋が陸となりました。これを豊島の洲埋め立てと云われます。以後、明治から現代に到るまで、盛んに海を陸地にしましたが、発展に追い付かず、未だ臨海部の交通は渋滞します。従って都庁を新宿に移転したのは家康に劣らぬ英断であったと云えるのではないでしょうか。これで都庁を中心とする同心円の中に23区がほぼ入ってしまうことに気がつきます。人口の分布からしても、都庁が移転すれば人や物資の流通も効率的になり交通渋滞も緩和されます。
 それでは東京湾の将来はどうなるのでしょうか。埋め立ては現状止まりで、中央防波堤は植林されて巨大な森となり、緑の道になって爽やかな風を送り、ヒートアイランド現象は緩和されることでしょう。新木場から南へ眼を転じますと、今までランドマークの主役であった風力発電のプロペラに代って、東京ゲートブリッジが東と西からやって来て、もう少しで握手をします。開通すれば、江東区若洲と大田区城南島が結ばれ湾岸道路の渋滞が緩和されることでしょう。北方に見えるスカイツリーは、2月1日現在569メートルまで伸び、今年中に武蔵(ムサシ)の国に因んで634メートルに達し来年開業します。
 平安の歌人在原業平が『伊勢物語』を著しました。「昔男ありけり己をやうなきものに……」で始まる物語は、都で出世競争に破れ、傷心の身を癒やす旅を綴った。業平自身がモデルになったと云われていますが、この主人公は隅田川を渡るとき、水に浮かぶ白い鳥を見て、船頭に鳥の名を訊きます。当時の都は遠く京都に在りましたが、鳥を京の貴婦人に見たてて「都鳥」と命名されていることを知り、後に有名になった「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と歌を詠みます。この故事によって後生架けられた橋を「言問橋」、主人公の足跡を「業平橋」と名付けました。都鳥は、ゆりかもめとも呼ばれ、現在でも東京湾を生息地とすることから、発展する東京湾の埋立地を回遊する電車の愛称に冠せられています。一方、東武鉄道の業平橋駅は「スカイツリー駅」と改められ、平安から平成へと引き継がれ、時代をリードして行くことでしょう。
 昨年羽田の口滑走路が完成し、供用開始され、国際線旅客ターミナルは、外国人旅行者や、日本人の見物客等で平日も賑っております。江戸時代の町並を模したレストランや店舗が並び人気店には行列が出来ます。プラネタリウムもあり新しい観光名所になることでしょう。

 



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