東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(68)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 7月16、17、18日と三連休がありました。7月15日は、4月に予定していたゴルフの親睦会が東日本大震災で延期になり猛暑の中行なわれました。一週間程前から夏風邪を引いておりましたので、急遽朝キャンセルして家で休んでおりましたら、翌日幹事の方から電話があり、40名中3名が暑さで体調を崩し途中リタイアしたとのこと。「君は来なくてよかった」と云って慰めてもらいました。7月16日は、これも震災で延期になった東海道ネットワークの会新居宿探策の例会があり、朝電話でお断りした処、後日会費の返金とお便りがあり、その日は暑くて20名中3名が途中リタイアしたとのこと。連休は何もしないで塞ぎ込んでおりましたら、7月18日未明、女子サッカーワールドカップ決勝の中継放送があり、なでしこジャパンは一度も勝てなかったアメリカを接戦の末、PK戦で破り、世界一となって日本中が湧き返り、私も元気を取り戻しました。そのような訳で、新居宿探策の報告も出来なくなりましたので、18年前の東海道中から回想し、歴史探訪をしながら、新居宿まで辿り着こうと思います。旅とは、決まったルートを行くより、脱線して予想もしなかった方へ展開することの方が強く印象に残っているようです。
 平成6年5月1日、東海道を歩き始めて10日目、友人萱原画伯を誘い出すことに成功しました。前回の最終地、原宿の駅前旅館を予約し、初めての宿泊で楽しい弥次喜多道中となりました。夕刻着くとお女将さんが応対に出て来ましたが、以前どこかで会ったような気がしました。彼女も私をどこかで見たと仰っておりました。昭和40年頃、ゼネコンに籍を置いて、東名高速道路の建設で一年間、近くに滞在したことがありましたが、若し会っていればその頃でありましょう。しかし30年以上前のことで、お互いそれ以上の詮索はしませんでした。
 翌日は道に迷って富士山の方へ進んで行きますと、鉄道があるのか「カンカン」という警報の音がします。岳南鉄道が通っており、須津(すど)という無人駅があり、画伯は夢中になってスケッチを始めました。其の間私はたまたま走って来た二両連結の電車に乗って探索に出掛けました。運転手と車掌、それに乗客は私の他に初老の女性が一人いるだけで、その婦人はうっかり居眠りをして乗り越してしまったので私達は終点まで行って折り返して来ました。以前は吉原に製紙工場があり通勤する工員さんが多かったようですが、今はバイク通勤がほとんどで、いずれ赤字で廃線になるだろうと思っておりました。ところが、東海道ネットワークの会吉原散策で久し振りに出会ったこの電車が賑っているのを見て大変嬉しくなりました。NHK大河ドラマ「風林火山」の主人公山本勘助が当地の出身で、一族の墓が見つかり、また月面探査衛星「がくや号」の活躍で、沿線の竹林が『竹取物語』の舞台になったとのことで脚光を浴び、電車は「勘助号」、「かぐや姫号」の愛称で多くの乗客を集めて賑っておりました。
 その日の最終地点富士川には、源氏と平家が対戦した戦跡がありました。川から一斉に飛び立つ鳥の羽音に、平家軍が源氏の襲来と勘違いして逃げ出し、源氏方は戦わずして大勝利を収めました。源氏の布陣跡は川の西側にありました。まさか背水の陣を敷いたのではと思いましたが、以後川の流れが変ったことを案内役町の古老の説明で納得しました。
 平成6年6月18日、前回、島田まで歩き、その日は日帰りの予定で出掛けました。世界一長い木造歩道橋、蓬莱橋を渡り、茶畑の中を歩いて行きますと、大井川の鉄橋を蒸気機関車が煙を吐いて走っていくのを見掛けました。金谷駅前で食事をしながら話しておりましたら、店のおやじが「千頭(せんず)駅まで行けばSLに追いつきます」とのこと。それでは、日帰りの予定を変更して千頭駅まで行き、金谷まで折り返して戻る準備をしているSLに再会することが出来ました。ここで又旅は脱線します。大井川に沿ってもっと奥まで行こうと、二両連結の列車に乗り、列車は途中急勾配になって、アブト式の機関車に繋いだり、次の駅で外したりして、結局、接岨峡温泉駅まで行きました。農家のおばさん風の駅員に宿の手配までしてもらい、旅館の息子さんが雨の中を迎えに来てくれました。旅館の前はダムが工事中で、完成すると湖畔の宿になることでしょう。一泊二食一万円で温泉旅館に泊り、夕食は囲炉裏のある部屋で、山菜づくし、鹿の肉、山女の塩焼という御馳走でした。次の日は一日雨で難儀しました。
 小夜の中山で「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけり小夜の中山」という歌が大きな文字で刻まれておりました。これは、北面の武士として仕えていた将来有望な若者が、皇族の高貴な女性と道ならぬ恋に落ちて、突然出家し、以後は生涯旅と歌で過ごした西行法師が、当時隆盛を極めていた奥州の藤原氏に逢いに行く途中詠んだ和歌で、西行生涯の傑作と云われています。当時は淋しい処で、夜鳴き石や子育飴の伝説もあります。子育飴を売っている95才の名物女性に逢い飴を買いました。芭蕉も猛暑の中ここを通り、「命なりわずかの笠の下涼み」という俳句を詠みました。日坂宿を過ぎ、画伯は丁度通りかかったバスで掛川駅に向かいます。私は雨の中を約二時間かけて歩き、ようやく約束の時刻に掛川駅に辿り着きました。
 東海道ネットワークの例会で掛川城へ行ったときは、NHK大河ドラマ「功名が辻」のブームで賑わっておりました。当時の城主山内一豊は、信長、秀吉、家康の信任が厚く、その蔭には鏡台の裏から金子(きんす)を出して立派な馬を買い与え出世の糸口を作り内助の功と云われた妻千代の健気な力がありました。
 長浜城、掛川城と移封される毎に出世し、関ヶ原の戦では家康に随意に使ってもらうよう掛川城を提供しました。江戸時代に到っては土佐24万3千石の領主に大出世を遂げ、旧藩主長宗我部氏の領民とも融和をはかり、その子孫最後の藩主山内容堂は、幕末の四賢候と云われ、あの坂本龍馬の脱藩の罪を許すという懐の深さも見せています。
 今、掛川には木造の城が聳えていますが、この城が造られるに際しては、山内一豊の妻千代に勝るとも劣らぬ女性の力がありました。
 女性が掛川市長と対談していた時でありますが、市長に何が欲しいですかと尋ねた処、市長はほんの冗談の積りで「城が欲しい」と答えました。それでは私がと、ポンと十億円を出し、他に市民からも寄付を集めて立派なお城が完成しました。
 まだ新居宿までは間がありますが、この続きは又の機会に。10月には日本橋から京まで毎日会員が交代で歩くイベントがあります。これからも私は体力と気力がある限り、東海道と関わっていくことでしょう。




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