東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(69)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今年の盆休みは8月12−16日までの5日間でした。もう40年近く加入している会員制リゾート施設は、3ヶ月以上前から申し込まないと予約できず、ようやく8月13日は確保しましたが、連泊は叶わず、JTBに行って8月14日の宿泊と電車の切符を買いました。5月の連休は安曇野のホテルに二泊して黒四ダム、奈良井宿の探索をしました。今回は木曽路の探索と歴史探訪をします。長野県青柳に住んでいる長男に小渕沢駅まで来てもらいました。八ヶ岳のホテルはここから小海線に乗り換えて二駅の甲斐大泉にあります。チェックインは午後2時以降ですので、夜の食事の8時まで充分ある時間を使ってどこまで行けるか。中山道六十九次のうち、碓氷峠を上った軽井沢宿から馬籠宿まで二十四宿が長野県にあり、うち贄川から馬籠までを木曽十一宿と云われています。諏訪湖のサービスエリアで十番目の大きさを誇る湖を眺め、伊那インターチェンジまでは一気に南下して行きます。伊那インターを出て、中央アルプスの下をトンネルで抜け権兵衛街道をジグザグに行くと、のどかな農村の風景が展開して木曽福島に向かいます。16年振りに通る宮ノ越は、木曽義仲旗上げの地として知られており、信州そばの店が旗上げそばと銘打って幟が風にはためいています。

 時は平安時代の末期、後三年の役で勝利した平家の全盛時代で、「平氏にあらずんば人にあらず」と云われておりました。平清盛は二女を高倉天皇の?とし、建礼門院と称し、生まれて間もない幼児に皇位を継がせ、安徳天皇としました。これに憤慨した以仁王は源氏に平家打倒を促し、以仁王は宇治平等院の戦いで敗れて果てましたが、平氏打倒の気運が一気に盛り上りました。宮ノ越で旗上げした義仲は、北陸の倶利伽羅峠で、角に松明をかざした牛の大群を使って平家の軍勢を追い落し大勝しました。その勢いを駆って京に上り平家一門を一掃した功により、30歳の若さで征夷大将軍の地位に登りました。しかし京では田舎育ちの兵士たちが乱暴狼藉の限りを働いたので、源頼朝の弟、範頼の軍勢に滅ぼされて散ってしまいました。琵琶湖の畔、大津宿に義仲の霊を慰める為に義仲寺が建てられ、ここを訪れた芭蕉は遺言によって義仲の隣に葬られました。辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句も石碑に刻まれている。義仲寺は俳句を嗜む人が多く訪れるようだ。中山道中のときは一人で歩いたが、今日は親子三人車道中で、感慨に浸っているうちに木曽福島に着いてしまった。お昼を報せる鐘の音が、島崎藤村作詞の「名も知らぬ遠き島より流れ寄る・・・」で有名な椰子の実のメロディーであった。山国出身の藤村が海の詩を作ったのは何故だろうか。蔵と庭のある商家風の家で食事をし、店の人に地図を貰い、名所寝覚の床へ向かう。竜宮城から帰った浦島太郎が木曽川の流れの中にある四角い岩の上で玉手箱を開け、三百年の夢から覚めたという伝説がまことしやかに語られ多くの観光客が来て賑ったと云う。元祖は天橋立であると、入場券を売るおばさんの説明があったが、ここを訪れた有名人は、井伊直弼、十返舎一九、大岡忠相はじめ諸国の大名も参勤交代の途上立ち寄ったであろうことは想像に難くない。名所の評判は全国的に知られていたようだ。将軍綱吉のとき、とり入って側用人から老中にまで上り詰めた柳沢吉保の別邸が今は六義園として東京都の公園になっているが、吉保は権勢を欲しいままにし、別邸の庭に全国の名所のミニチュアを作らせたが、その中の一つに寝覚の床が今でも残っている。

 「木曽の棧太田の渡し碓氷峠がなけりゃよい」という俗謡があり、これは中山道の三大難所と云われ旅人から恐れられていたが、木曽の棧とは、植物の蔦とつるで作られた吊橋であり、旅人は中山道を通るには避けて通ることはできなかった。芭蕉はここで「棧やいのちをからむ蔦かづら」という句を詠んだ。今は面影もなく僅かに木曽の銘酒「木曽の棧」に名を留めている。次の名所妻籠宿まで、上松、須原、三留野の三宿を通って三十四粁を一時間かけて走り、懐かしい宿場に着く。

 昭和43年、歴史的街並保存事業により宿場の景観が蘇り、国の重要伝統建造物群保存地区に選定された。今日も猛暑の中を訪れる人は多く、土産物を見たり、冷たいものを飲んだりしてどこの家も客であふれている。

 今日の最後の目玉、馬籠宿へ行くには、蘭川に沿って登って行く。ほとんどが山道で九粁ある。「夜明け前」に出てくる半蔵、寿平次も通った道である。「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である」これは島崎藤村の名作『夜明け前』の書き出しである。この表現は今でもあてはまり、明治維新後いち早く開けた東海道に比して中山道は昔の面影がかなり残っている。NHKの女子アナが旧中山道を1日中山道(イチニチジュウヤマミチ)と間違って読んだことがあるが、自分の足で歩いた人は誰もこれを笑うことはできないのではないか。宿場の入口に高札場があり、妻に説明したら、「そんなに怖い処だったのですか」と云う。罪人を絞め殺す「絞殺場」と聞こえたようだ。日は大分傾き、八ヶ岳のホテルに行くには中津川インターチェンジまで南下し恵那山トンネルをくぐり、途中豪雨で渋滞したが、百粁以上走って夜8時までにようやく辿り着くことが出来た。

 長野県歌「信濃の国」の一番は

 「信濃の国は十州に境連ねる国にして
  聳ゆる山はいや高く流るる川はいや遠し
  松本 伊那 佐久 善光寺
  四つの平は肥沃の地海こそなけれ物さわに
  万ず足らわぬ事ぞなき」

 これは明治32年小学校唱歌として発表された。従って長野県民でこの歌を知らない人歌えない人はないと云う。他の都府県では考えられないことであり、如何に長野県民が郷土を愛しているかが理解できる。




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