東京木材問屋協同組合


文苑 随想

日本の歴史を静かに考える。
─日本人のルーツを求めて─

榎戸 勇


 前月号で伊勢神宮のことを書いたが、その際天照大神は持統天皇が藤原不比等の提言に乗って7世紀末につくられた神であることを述べた。
 藤原不比等は実に頭が良く小回りが利く男である。持統が亡くなって文武(701年即位)、元明(708年即位)、元正(718年即位)の時代になると不比等は自分の娘や孫娘を次々と天皇の后にして、皇室の外威として権勢を伸ばして平安時代の初期、中期をまさに藤原時代にした。

 さて、時代を7世紀末に戻す。前月号で述べたように、藤原不比等が天照を女の神にすることを持統が賛成したので、反対論を主張した人々も持統天皇の言に逆らうことができず、やむを得ず納得せざるを得なかった。
 持統は不比等から天皇を天照大神の子孫であることにすれば、天皇は「神」になり万世一系の皇位になると入知恵されていたと言われている。「天皇は神にしあれば…」である。

 不満を抱えて引きさがった人々は出雲に社を建て、彼等が神と信じている大国主命を祀ることにした。これが出雲大社である。(大国主命の7代前の祖先の大物主命も共に祀った。)
 出雲大社は全ての神の統元締めの社であるとして大社としたのである。10月は全ての神々が出雲大社へ集まる月で我国の神社は空になるので「神無月」と呼んだ。総元締の出雲は神々で賑うので、出雲の人々は10月を神有月と言うらしい。

 大物主命も大国主命も神話の世界であり、その点は天照と同じようなものかも知れない。

 それでは本当の歴史はどうなのであろうか。

 紀元前400年頃から約180年間中国大陸は有力な諸候が争いあう戦国時代になった。中国の湿地帯で米をつくっていた農民は難を恐れて朝鮮半島へ逃げ込む人が沢山おり、半島の南西部で、水田をつくり米づくりをした。そして一部の人は海を渡って九州の佐賀県あたりに上陸し、川が流れデルタ地帯になっている場所で米づくりを始めた。そして水田による米づくりは次第に東へ広がり、紀元0年頃大阪府の南部、淀川の豊富な水と広大なデルタ地帯に住みつき米づくりをし、丘地では野菜をつくり、また大阪湾の豊富な魚も有り、沢山の人々が住みついた。食料が沢山有るので次第に人口が増えた。人々は集団ごとに村をつくり生活しており、村は村長により治められていた。村と村との交流はあまり無かったようである。

 朝鮮半島では4世紀中ごろに百済(半島西南部)、新羅(半島東南部)、また北部では高句麗が力を増していた。5世紀末頃から百済が新羅に圧迫されたので、百済から難を逃れて沢山の人々が渡来して大阪府南部に来た。従って百済系の人々が急増した。
 7世紀の末頃百済が新羅に滅ぼされたので百済から王公貴族、学者、役人、建築や製銅、其の他色々の技術者が渡来して住みついた。
 すでに沢山居た百済系の人々は、それらの人々を温かく迎え、渡来した百済王を自分達の王にして、ばらばらであった村々が王のもとに組織された。百済系の人々は九州から東北地方南部迄に広がって住んでいたので、我国は一人の大王を持つ統一国になった。どうもその王が現在の皇室の祖先ではなかろうか。昔、そんなことを言ったら不敬罪になっただろうが、どうも史実としてそう考えざるを得ない。我国は百済系の人々を中心に、その後渡来した新羅系、そして高句麗系、また有史以前はるか昔に渡来した少数の人々、それらが混血した人種らしいが、今は皆同じ日本人である。
 また天皇は私達の心の中心である。特に昭和21年に昭和天皇が人間宣言をしたので、私共にとって天皇は身近な存在になった。
 現、天皇陛下と美智子皇后は私達国民のすぐ近くの存在である。本当に素晴しい。天皇陛下はすでに80歳近くになられている。皇后もほぼ同じである。
 お二人共無理な日程を組まず、皇太子殿下が代理できることは皇太子殿下に任せ、お二人共静かな老後をお過ごし頂きたいと思っている。

平成24年7月5日 記
 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2012