東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の1

花 筏 


 今では完全に死語になったと思われる言葉ですが、50年ほど前まではバリバリの現役で「…故郷に錦を飾る」と云う言葉が我国の津々浦々にござんした。この言葉は木材業界に於いては頗付きの褒め言葉として使われておりましたが、昨今の若い方〃でこの言葉の
意味を正確に判る人はナンボ居られるでしょう。類似語として「一旗挙げる」と云う表現と似ておりますが、ニュアンスとしては微妙に違います。昔はかなり重い意味を持って国中で認知されておりましたが、今では当事者以外には外来語の様な認識となり果てております。
 直訳すれば、生れ故郷にキンキンキラキラの着物を着て凱旋をするという事なのですが、其れにはチャンとしたルールが有り、金銀だけ出せばOKと言う訳でも無いので、この際老婆心ながら「ふるさとにニシキをかざる」と云う事の由来を申し上げて置きましょう。
 既に皆様はお判りの様に「錦を飾る」と云う事は「独立」をすると言う事でございます。その事のスタートは先ず組合(東京材木問屋同業組合)の表彰を受ける事から始まります。

 これが今でも毎年行なわれている「従業員の十年表彰」の原点なのですが、当時はこの表彰を受けると独立開店を許されると云う恩典が付いていたとも言われておりましたので、店主の意向で「奴は素行が悪い、未だ早いダロウ?」「アレが家の代表か?」とか云う事で中々すんなりとは行かず双方共に其れなりに苦労が有った様です。その上に一門の候補が決っても組合の理事会でクレームが付けば文句無く一瞬にしてオジャンとなる訳です。

 独立するには普通は二年間のお礼奉公が付きますから、実際の年期明けは12年と云う事になります。その期間が無事に勤まりますと晴れて「独立開店」となる訳でございます。当時の大店は大概が支配人制で、旦那(店主)支配人(一番番頭)以下、二番番頭〜から七番番頭(丁稚)迄の八段階の序列が有り、その下に女中頭〜女中〜末(地方からの行儀見習い)迄、三段階あったと家のバアサン(恐れ多くも昭和天皇と同年)が言っていました。当時(明治半ばから大正〜昭和16年の個人営業廃止迄)はかなりの店でも番頭が古びると貸家の1〜2軒を造りその家賃を与えていたと、当家の先代のジイサマが言っておりました。
 支配人を二期経験したジイサマの話では、暮れの晦日(30日)に旦那に呼ばれて、
「○○ドン、来期は貴方お願いします」と言われ、キャッシュと売掛帳と在庫帳を渡されて、ヨ〜イ・ドン!。アッ〜という間に一年が経ち大晦旧。旦那の前で一年間の報告をして、預かった元金と儲けと売掛帳と在庫帳を渡すと、「ご苦労でした」と言って儲けの半分を自分の手許に置き、後の半分は「皆さんで分けて下さい」と言って席を立ったとの事です。これは給金では無く「利益配当」なので、支配人から丁稚迄が給金の%で分配した様です。但し、年によって▲になる年もありますが、この場合も主人は「ご苦労様でした、来年は○□ドンにお願いしますので…」で欠損金の事は一切触れず自分持ちでジEND。但し、
その時の支配人は大抵その後は居たたまれずに100%、サョウナラとなった様であります。番頭も本店と支店を合わせて常に60人程は居て、女中も10人は居たようですから腕の
良し悪しで豚だ災難でごわす。故にこれが「豚を掴む」の語源とか何とか言ってました。

 今回は口開けですのでこの辺で、つごもりと致しやす。次は「店が火事でもTELが」から参りましょう。

平成24年7月19日
 

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