東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其のII …店が火事でも…

花 筏 


 今回の外題を「店が火事でもTELが…」と致しましたが、これも先回ご紹介致しました、「故郷に錦を飾る(独立する)」と関連する事柄でして、ようやく念願が叶って独立をして、木場内の挨拶回りも滞り無く済せ、後は生まれ故郷に帰り先ずは両親に報告をして墓参り、兄弟親戚縁者に挨拶をします。次に、村長・校長・お寺の住職の三役に学校の演壇の上で「この方は当村の出身でして若くして東京に出られ刻苦勉励し、この度目出度く独立を
され」と云う紹介を受けると完璧で、これが正真正銘の「故郷に錦を飾る」と云う事です。
これで全村に認知された訳でご猿。これには、それなりの記念品を贈呈しければなんね〜。
 お陰で村は国旗掲揚塔や学校の講堂の緞帳や鯨幕、ブラスバンドやピアノやオルガン、
お寺の銅鑼や木魚も新調される事になり、代々その風習は引き継がれて寄進をした当人は翌日から村の通りを大手を振って闊歩する訳です。それから間も無く出征兵士が同じ道を日の丸の小旗を背にして、バンザイ〃〃の声に送られて…、消えて逝かれました。

 当時は国民皆兵なので、二十歳の兵隊検査は生まれ故郷の所在地で受ける事になります。軍隊とは不思議な所で、配属は志願ではないので希望する部隊という訳には参りません。
当家の先代は身体堅固で甲種合格でしたが、兵科は騎兵で豊橋23連隊に配属されました。毎日が尻の皮が剥ける程の猛調練、漸く二年の兵役が終り伍長勤務上等兵で目出度く除隊。(豊橋23・24連隊より三名選抜され高松宮様の御前で馬術を披露し、馬術勲章を授与される。
二年で伍長勤務上等兵は木場内広しと言えども大変に少なかった、と自慢しておりました。
大正12年(1923)の関東大震災の時は豊橋駅頭で各地よりの避難民を馬上より保護誘導をした様な事を言って居りました。

 除隊後は日増に戦雲濃厚となり、遂に昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争に突込む。
 今、聞けば「お前バッカじゃねえの?」といわれるのが当たり前の話ですが、ジイ様も
当時は忠君愛国に真赤に染め上げられており、年の若い甲種合格なので赤紙(招集令状)は当然来る筈だが何時まで待っても来ないので、九段の軍人会館まで聞きに行ったら原隊の豊橋23連隊は昭和15年に満蒙のノモンハンでロシヤのコザック騎兵にコテンパンに叩れ全滅した。原隊が蒸発すると騎兵は伝令位しか任務が無くなりお呼びが掛らなくなった為、在郷軍人の分会長にさせられ、富岡八幡宮の社頭で出征軍人のバンザイ三唱の音頭を取り、後に白木の箱(中は空)の受け渡しを命じられ、終戦後も大分経ってからも未だ復員せぬ
数軒の家を気にして薩摩芋やジャガイモを届けさせられました。
(在郷軍人会の会長は二二六事件の黒幕と云われた若手に人気のあった荒木貞男陸軍大将で戦後は越中島に住居し小柄だが眼光炯炯とした、カイゼル髭を生やしたオヤジさんでした。)

 本業の材木屋の方は当時は木材は全て統制物資(昭23年迄)なので、日本木材株式会社(日木社・現在の全木連)と東京木材株式会社(地木社・都木連)の二社しか無くて、どんなに大きい会社の社長でもその中のどちらかの会社の社員となった筈です。当然、家の爺様も地木社の仕入部の課長 (秋田・担当)で毎日弁当を持って旧木場ビルに通っておりました。
併し、全ての物資が軍事優先で配給の為、出社してもやる事が無く将棋と囲碁がナンボか強くなったと笑っておりました。

※「理想的な独立」とは前述の様なスタイルでオーナーが当人を「独立」させますと言う、「お知らせ」を仕入先・得意先の全てに出し、その口上書に「独立して三年間の間は全て不祥事の有る場合は当方が責任を持ちます」と念書を入れたと言います。店を出す場所が無い場合は本店が保障人になって探しており、(2)在庫が品切れを起こした場合も、本店の荷物を原価で使っても可。と云う様な事でもありましたので、自分の店が火事の場合でも本店からTELが掛かって来たら、飛んで行かねばナンネエー。と云う様な事を云われて
いたそうです。実際にこれに似た事が冬木町で有ったそうでご猿。

 

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