東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其のIV

花 筏 


 その昔、江戸で一番多い物のベストスリーは「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と云われてます。慶長八年(1603)、徳川家康が征夷大将軍に補されて江戸に幕府を開いた後、慶喜が恭順を顕し大政奉還をしたのが慶応三年(1868)、西暦ですと丁度1735年がその中間であります。和暦では享保20年ですので将軍は八代吉宗で、元禄・宝永・正徳・享保・元文の時代です。この時代は265年続いた江戸時代の中でも最も華かな元禄文化のド真ん中でございました。(享保19年に材木問屋であった豪商・紀伊国屋文左衛門が六十六歳で瞑目しておます)
 従って、江戸の人口も増加の一途を辿っていたのでしょう。その中でも「伊勢屋」と云う屋号の店が数ある業種の中でも一番に目立っていた様子でトップに挙げられております。二番目に多い「稲荷」はお稲荷さんの事ですが、元来はインドのヒンズーかバラモン教の古代宗教の女神の事で、稲荷信仰と習合して日本では「荼枳尼真天」と呼ばれており白い狐が神様の化身でお使い番でございます。 
 尚、豊川稲荷は「円福山・豊川閣・妙厳寺」というお寺ですが、境内に祀られている稲荷への信仰が有名な為、普通はこの名の方が通り易い。山形の月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山も現在も神仏習合の形で山頂に鳥居が立ってご猿。以前は神仏習合は当たり前の事でしたが、明治新政府が聖徳太子が設定した国是の「仏教」から、天皇家の「天照大神」にチェンジ。
 尚、当家の先代も独立した時に「願掛け」を致したとの事で三州三河豊川の豊川稲荷には毎年必ず小正月迄に初詣に参って居りました。小生も親父が病気で寝込んで居た時等には代参をした事がございます。大法要の後にロハ(無料)で出される昼食が大変に美味でした。

 又、このお稲荷様は疎に致すとテ〜へンな事に成ります。新木場は未だ歴史が浅いので、テ〜シタ事はござんせんが、旧木場では「稲荷」のタタリでかなりの悲劇が生じております。と申しますのは、どちら様も山間僻地より花のお江戸に出て来られて、ようやく何とか上げられる迄になり、次に日本の三大稲荷である京都の「伏見稲荷」・愛知の「豊川稲荷」・茨城の「笠間稲荷」の何方か様を屋敷内の一隅に勧進をして盛大にお迎えを致すのですが、商売が左前になると、狐の神様に詫びを入れて「護摩札」を返納されてからなら未だしも、「後は野となれ山となれ」で全てを分投げて豚走しますと、礼儀を弁えぬのも大概にしろと白狐が怒る訳です。そして、事実その後にその土地に来られた方の大半は潰れて居ります。
旧木場にはその様な、ホワイト・イナリ・スポットが何ヶ所かありますのでご用心、ご用心。
 稲荷に限らず神社の跡も大概は駄目です。昔、当社の隣に「恵比寿神社」が在りまして ここも代々ダメでした。最後は木場の「三大金貸し」が倅の新居を総台桧で造りましたが、程なくして家庭の内が悲劇の坩堝と化し新築の家もメチャ〃〃に破壊されてENDでした。  それに反してお寺関係は墓地の跡地を含めてマイナスのイメージは余り耳にしませんが、これはどう云う訳で御座候也。深川はその昔より「寺町」として名を馳せておりましたが、明暦三年(1657・振袖火事・死者108,000余)江戸の八割を焼き尽くす大火の後始末の折、 永代浦の海中に焼け残りのゴミ・芥の類を投棄すべし、との町奉行所のお触れが出ています。その永代浦とは今の深川2丁目の「陽岳寺」(御船手奉行・向井将監)・「法乗院」(閻魔堂)・「玄信寺」「心行寺」「海福寺=今は明治小学校」「増林寺」「寒行寺」「正覚寺」の七ケ寺が 並んで居ります処が江戸初期の海と陸の境。当家は増林寺の墓地の中なので家を改築した折には当然の事ですが出ましたよ舎利頭が4つ程。区役所の文化財にTELしたら、見聞に来ましたが「これは江戸時代ですから…」と言っただけで無罪放免。やはり舎利頭は生が 良い様でした。その昔、斜前の親父が夜中に高熱が出て震えが止まらないといって家族が飛んで来られた事があった。行って見ると確かに歯の根も合わない様な震えようであって、救急車もまだ無い頃で近所の医者は旅行で不在。原因は?と当家の親父が聞くと「骸骨」と言って震えている。どうも土地の整理をして居たら次から次にと骸骨が出て来て止んない。しょうがないから目の前の明治小学校の塀の前に積んだ、と云うので見に行ったら何と 舎利頭が山積になっていた。一瞬ギョッとしたが親父に清酒を5〜6本買って来てバケツに入れて丁寧に洗えと云われ、それと店から5分の6寸を10束程持って来いと云われた。 それで棚を造りその上に洗った舎利頭を丁寧に並べ増林寺の住職が朝方迄お経を上げたら、不思議にその親父の震えがピタッと止まった。それから骸骨への恐怖心は○で無くなった。  最後の「犬の糞」だが、これが街中に散乱しているという事はフランスのパリの風景を 思い浮べさせる。花の都パリは今でも注意をしないとグチャと踏み付けると云われている。犬がそれだけ多いという事は食料事情が良いと云う事でも有って一概に否定は出来ない。江戸の町の場合は、ご存じ「犬公方・五代将軍綱吉」のお陰?だと云う事かも知れないが、多分に犬も運の良し悪しが有るものでご猿。御猿の場合は如何なものなんでしょうかね。その内に夢の中で猿面冠者の太閤秀吉様に聞いて置きましょう。

 

 

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