東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.142

〜歴史探訪、一人旅〜
「神田明神」と「江戸城ミニ天守閣」
青木行雄
新木場の日の出
新年あけましてお目出度うございます
平成24年1月元旦  青木 行雄

※神田明神「隨神門」昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに建立、木造総桧、入母屋造、色鮮やかに見事な門である。
※これがミニ天守閣、高さ80p、縦横60pで本物の72分の1。実にうまく配色されており、すばらしい出来栄えである。いつでも展示資料館(開場時間)に見ることが出来る。
 

 「神田明神」と言えば、まず知らない人はいないぐらい知られているが、行った事はないと言う人も案外多いかも知れない。神田と言うから神田にあるのだろうというぐらいしか思っていない人もいる。
 私も東京に50年近く住んでいるが、行った事はない。この程、ミニ江戸城天守閣が奉納される神事が行なわれた。
 神田明神には、江戸東京の文化を知るための資料を展示している資料館がある。その資料館に何年かの歳月をかけて長谷川進さんが制作された、高さ80p程のすばらしい江戸城天守閣が展示されていた。
 平成23年9月1日、報道陣数十社を取り巻く中厳かに神事が行こなわれた。江戸総鎮守の歴史を持つこの神社に奉納された事はこの時期に大変意義のあることだと思う。
 それでは「神田明神」について、社伝より拾って見た。

 神田明神は江戸総鎮守として、江戸東京を見守ってきた明神様、神田明神の歴史は、江戸東京の歴史でもある。正式には神田神社と言うそうだ。
 この神田明神には「三柱」の神が祭られている。

 一之宮、「大己貴命」
     (おおなむちのみこと)
 二之宮、「少彦名命」
     (すくなひこなのみこと)
 三之宮、「平将門命」
     (たいらのまさかどのみこと)

(1)一之宮 大己貴命(おおなむちのみこと)
だいこく様として親しまれている。730年(天平二年)に鎮座した。
国土開発・殖産・医療に大きな力を発揮され、国土経営・夫婦和合・縁結びの神様として崇敬されている。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりょ)を守護する神とも言われている。大国主命と言う別名をお持ちで、島根県・出雲大社の御祭神でもあると言う。

(2)二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
えびす様。1874年(明治7年)に茨城県・大洗磯前神社より神霊を迎えて奉祀。商売繁昌・医薬健康・開運招福の神様として崇敬されている。最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の御子神で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり手のひらに乗る小さなお姿ながら知恵に優れ、一之宮・大己貴命とともに日本の国づくりをなされた神様である。

(3)三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
 まさかど様。除災厄除のご神徳をお持ちの神様。1309年(延慶2年)に奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として東国の政治改革をはかり民衆からの信望も厚いお方であった。1874年(明治7年)に一時、摂社・将門神社に遷座されたが、(昭和59年)に再び本殿に復座され「三の宮」・平将門命として奉祀。大手町の将門塚には将門公の御首(みしるし)をお祀りしている。
 この大手町の将門塚のある場所は、神田明神創建の場所で、神田祭の時には必ず、神事が行なわれる重要な場所と言う。

 それでは、江戸東京を見守ってきた明神様、江戸総鎮守として、神田明神の歴史は、江戸東京の歴史でもあると言うことになる。
 神田明神の社伝によると、
 730年(天平二年)に出雲氏族・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現、東京都千代田区大手町、将門塚周辺)に創建されたと言う。その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、人々はそれを将門公の御神威によるものとして恐れたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊を供養し「蓮阿弥陀仏」の法号を授与した。さらに1309年(延慶2年)に、神田明神に奉祀されたと言う。
 戦国時代になると神田明神は「太田道灌」や北条氏綱といった名立たる武将により手厚く崇敬されたのである。この辺から江戸城とのかかわりが濃くなったのであろう。
 1600年(慶長5年)天下分け目の関が原の合戦で神田明神は「徳川家康公のため戦勝の祈祷を行い、御守護を授与した。すると、神田祭の日・9月15日に見事に勝利し、天下統一を果したのである。これ以降、神田明神は徳川家・江戸幕府の深く崇敬するところとなり、神田祭も将軍・幕府縁起の祭とされ絶やすことなく行うことが命じられたのである。また家康公の戦勝にちなみ「勝守(かちまもり)」を社頭で授与するようになり、現在でも多くの参拝者に授与していると言う。
 1603年(慶長8年)、家康公により江戸幕府が開かれると、社地を江戸城から表鬼門の位置にあたる現在の地へ遷し幕府により壮麗な社殿が造営された。以降、江戸時代を通して「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと江戸庶民に至るまで多くの人々の崇敬を受けたのである。
 明治時代に入り、社名を神田神社に改称し「准勅祭社」「東京府社」として皇居・東京の守護神と仰がれた。1874年(明治7年)、はじめて東京を皇居とお定めになられた明治天皇が親しくご参拝になられ御幣物を献じられた。そして同年の1874年、茨城県・大洗磯前神社より「少彦名命(すくなひこなのみこと)」を神田明神の本殿に奉祀した。「平将門命」は摂社・将門神社に遷座された。将門命はその後、神職や氏子総代をはじめとする氏子崇敬者の懇願により、1984年(昭和59年)に再び神田明神・三之宮ご祭神に復座されたと言う。
 1923年(大正12年)、関東大震災により江戸時代建立の社殿が焼失したが、氏子総代を中心に早くも復興が計画され、1934年(昭和9年)、神社建築としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の現在の社殿が約十年の歳月と巨額の浄財により完成したのである。
 昭和10年代後半より、日本は未曾有の第二次世界大戦へ突入し、東京は大空襲により一面焼け野原となった。当社の境内にあった諸施設のほとんども烏有に帰したが、耐震・耐火構造の社殿はわずかな損傷のみで戦災を耐えぬいたのである。
 戦後以降、当社は次々と復興事業を行い、結婚式場・明神会館などの境内の建造物を再建していき、1976年(昭和51年)に総檜造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない境内の姿を取り戻したのである。さらに1994年(平成6年)から、1999年(平成11年)にかけて「平成の御造替事業」を行い、社殿の修復・塗替えや資料館の創建などの境内整備を進めた。その後も、2005年(平成17年)の第二次整備事業により、神札授与所・昇殿参拝受付および控室・休憩所を兼ねた鳳凰殿や氏子英霊を祀る祖霊社を創建するなど境内整備事業を進めていると言う。

※本殿(社殿)の正面右側にある明治天皇御臨幸記念碑。このような文化財記念碑が境内に約17件あって勉強になる。
※文面の中に説明はしたが、ロマンを感じる「銭形平次の碑」である。27年間で383編もの『捕物控』が時代を楽しませてくれた。
※正面は鳳凰殿、これから神事が始まる社殿へ向う、参列の人々。
※左側のミニ天守閣が長谷川進さんの作られた模型。奉納神事が行なわれる所である。宮司の厳かな祝詞が神殿内に聞こえた。

 このように「神田明神」はみごとに再建され、色鮮やかな各々の館がすばらしい。又境内の中には明神様と氏子町に緑の摂末社が9社程あってそれぞれの祭もある。
 社殿(本殿)の裏側に取りまくように摂末社があって、特長があるし神社に興味があれば楽しい散策でもある。
 又、文化財や記念碑もあって江戸東京の文化を伝える数々の碑は勉強になる。この数17件程の中に、銭形平次の碑があるが興味があったので記して見た。
 社殿正面の右側から奥にまわった所に立っているが「銭形平次の碑」。
 野村胡堂の名作『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と二人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立、『捕物控』は昭和6年『文芸春秋オール読物』に第一作『金色の処女』が発表されて以来、27年間で383編にも及んだ。映画やテレビにもよく放映され大変な人気だった事をよく覚えている。

 このように「神田明神」は江戸総鎮守であった事から、江戸時代から徳川家とは特に縁が深く、場内もおおいに守護され、徳川将軍からも守護神として祀られていたのである。
 ところでこの程、城模型創作家の長谷川進さんが、江戸城天守閣を再現した段ボール製の模型(72分の1、高さ80p、縦横60p)を完成させ9月1日神田明神に奉納したのである。徳川家光が1638年(寛永15年)に建立し、約20年で焼失した「幻の天守閣」を精巧に再現したすばらしい作品である。神田明神の大鳥居宮司が「天守閣の再建は神田明神のおおいに望む所でもある。この『ミニ天守閣』は是非神田明神で大事に保管展示したい」と申し出があった。
 「江戸城再建を目指す会」が仲人役を務め、めでたく、平成23年9月1日に大々的に奉納式が行なわれた。大鳥居宮司は「本物の天守閣が再建されるまで、このミニ天守閣を大事に見守りながら祈願したい」と祝詞(のりと)をあげて奉納式が挙行された。
 この「ミニ幻の天守閣」は精巧に再現された作品で、三浦大学教授が公開した復元図を基に何年かかけて完成したものである。天下泰平の時代に建設された城は、今の天守台を見てもわかるように石垣の石がきれいに切りそろえられていることなどが特徴である。屋根や壁は7色の塗料を混ぜ合せ、緑や青色を表現したと言う。
 今、神田明神の資料館で一般公開されている。

 このように「神田明神」は、江戸東京に鎮座して1300年近い歴史を持ち、江戸時代には、「江戸総鎮守」として徳川将軍から江戸庶民に至るまで江戸のすべてを守護された。江戸東京には大変ゆかりがある神様と言える。そしていまだ天守閣の再建されていない江戸城が再建されることを待ち焦がれていると言う。大鳥居宮司は奉納式で一日でも早い再建を祈願された。式典は平成23年9月1日、厳かに終った。

平成23年12月4日 記

平 将門
 江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視されていた。

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