東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.143

〜歴史探訪、一人旅〜
奈良「談山神社」と「藤原鎌足」
青木行雄
※「談山神社」全図。中央の階段を上るか左側の入口から入るか自由だが、やっぱり神社は階段を上る方が御利益がえられるような気がする。
※入山料500円を払って境内に入る。私の写した写真はグリーンの木だが、見える木は全部紅葉の木である。すごいらしい。
※藤原鎌足公長子、定慧和尚が、父の供養のために678年(白鳳7年)に創建した塔で、現存のものは1532年(享禄5年)の再建である。木造十三重塔として現存。我が国唯一の貴重な建造物である。
※「鎌足公神像」と下は勝軍地蔵。三方にらみの像。このぎょろりとした目がすごい。
※けまりの庭から「権殿」と「十三重の塔」を望む。時期には紅葉一色となる。この下のけまりの庭が出合いの広場となった。
※「大化の改新の有名な場面」中大兄皇子が入鹿を殺害した場面である。弓を持つのが中臣鎌足であり、よく見ると入鹿の首が宙に浮いているのが見える。
 

 秋の紅葉、関西方面ではかなり有名らしく、秋の紅葉特集号には必ずと言っていい程この「談山神社」は上位にランキングされている。西の日光とも言われているらしい。
 奈良盆地の南東部に位置する奈良県桜井市は以前、木材の製材工場の多い木材の町であった。市域の南にひときわ高く連なる多武峰連山が続き、古来、山々はほとんど人の手が入らなく神の降りる山として信仰を集めた。そのため、太古から連綿と息づく森には温帯と寒帯にまたがる貴重な植生が見られ、山頂付近には本州南限といわれるブナの林があると言う。
 桜井駅から車で30分も行けばこの「談山神社」に行かれるが、なんとあの奈良の春日大社に縁の深い藤原鎌足公を祭神とする古社があるのである。
 鎌足は、645年(大化元年)、中大兄皇子とともに「乙巳の変」(大化の改新)を起こし、蘇我氏を滅ぼして政治の刷新を推し進めた。2人が国の将来を談った地という本殿背後の山は「談い山」と呼ばれ、談山神社の社号の由来でもある。

 鎌足は669年(天智天皇8年)に世を去り、摂津国阿武山(大阪府高槻市)に葬られたが、678年(白鳳7年)、唐より帰国した長男の定慧和尚が遺骨の一部を移し、十三重塔を建てて再葬し、翌年の679年には塔の南に講堂を建て「妙楽寺」とした。そして701年(大宝元年)塔の東に聖霊院(現在の本殿)が建てられ鎌足の木像が祀られたのである。
 その後926年(延長4年)には八百万の神を祀る日本最古の総社が建てられ、醍醐天皇から「談峰大権現」の神号も賜っている。中世には、興福寺や比叡山の僧兵と度々争乱が起き、伽藍は幾度も焼亡したと言う。1869年(明治2年)、神仏分離令を受けて一山は談山神社となったが、寺院としての信仰や習慣は廃仏毀釈のあおりを受けてもなお守られ、独特の祭祀の姿を今に伝えていると言う。

 この「乙巳の変」は世に言う「大化改新」のことであるが、この関わりについてもう少し説明を加えるとしよう。
 飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会において中大兄皇子(後の天智天皇)が蹴った蹴鞠が皮靴と共に中臣鎌子(後の藤原鎌足)の所に飛んで来たのを拾った事で2人は意気投合した。密かに2人共、政治を我がものにする蘇我入鹿の暴逆を許せなかった。そして藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をしたのである。
 「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く、蘇我入鹿の暴逆をいかにせん。願わくは奇策をのべよ。鎌足連は皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず」と『多武峯縁起』に書かれている。
 藤原鎌足公に縁の深い奈良の春日大社の花山院宮司の話の中にもこの談山神社の中大兄皇子と鎌足が蘇我入鹿の暴逆一説の話があって、興味深く聞いた事があった。
 神話から弥生時代から古墳時代を過ぎ飛鳥時代に入り、古代史の話になるが、西暦613年(推古天皇22年)大和国高市郡(現在の橿原市・高取町・明日香村周辺)に誕生したという。女帝を助けて摂政を務めた聖徳太子全盛の時代が終わり、645年に起きた大化の改新は『日本書記』に記されている。
 約1400年も昔の歴史の話が一神社の歴史に見れることは、ロマンを感じる話ではありませんか。
 もう少し簡単に説明をわかりやすく加えると、
 大和朝の昔、中大兄皇子後の天智天皇が中臣鎌子後の藤原鎌足と、当時の僭主蘇我入鹿の目も及ばないこの山深い隠れ里で、国体の現在と将来について談り合い、その結果が入鹿謀殺となったと言うことを談々と記したストーリーである。

 

談山神社の十三重塔

 談山神社の起源は、678年(白鳳7年)に鎌足の長男の定慧和尚が(前にも記したが)父鎌足の供養のために摂津・阿武山に埋葬されていた鎌足公の遺骨の一部を移し、この十三重塔を建立して妙楽寺を創建した事に始まると聞いている。701年(大宝元年)に神殿が創建され、鎌足公の御神像を安置し、長らく神仏習合の形で隆盛してきたが、明治時代の神仏分離令で寺が廃止され、談山神社として今に至っていると言う。
 今のこの十三重塔は1532年(享禄5年)室町時代の再建で、近年リニューアルしてすばらしい景観であった。この木造の十三重塔は世界でも珍しく現存する唯一のものである。この十三重塔は、いわゆる奈良や京都にある三重塔、五重塔などのように部屋があって中へ入って階段を上っていけるような塔ではなく、大きめの「卒塔婆」つまり供養塔である。

人々はこの談らいの故地、談山に来て何を談ろうか、春は桜、夏は青葉、秋は紅葉、冬は雪……と……。談山神社書に書かれているが、確かに私の行った時は紅葉はまだ早かったが神社周辺の木はかなり紅葉があった。
 「談山神社」、多武峯は、談峯、談い山、談所の森、とも呼ばれ「大化改新談合の地」の伝承が残る場所に、このような史実を頭にいだきながら、探訪すれば又味わいも違うと思う。
 他の神社参拝、探訪とは一味違う雰囲気が漂っていた。

 藤原鎌足の前の名前「中臣鎌足」と言ったが、死の直前、長年の功績が称えられ、天智天皇から「大織冠」と言う冠位と「藤原」姓を与えられ、藤原氏の祖となったのである。そして、奈良時代から平安時代に移っても藤原家一族の影響力は勢力を増して行くのである。

平成24年1月8日 記


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