東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.145

〜歴史探訪、一人旅〜
西伊豆「土肥金山」の歴史
青木行雄
※土肥金山の入口表玄関である。きれいに整備され、観光用に用意しました、と言う感じの入口であった。
※史跡の入口。この奥に坑口があり、坑口前の公園できれいに整備されている。
※金山の山。この下に金坑の穴が掘りめぐられている。何百キロと言うから驚く。
 

 「土肥金山」をご存知でしょうか。西伊豆の中間辺りに位置し、昔は舟のみの交通でえらい便利の悪い所であった。そんなわけで他の金山より少々開発が遅れていたようである。
 武田信玄が自分の国が豊かであったのは甲州の黒川金山を持ち一時期を風靡した、1573年(天正元年)武田信玄が没し、同時に隆昌を極めたこの甲州黒川金山も衰え始め、甲州流の土木技術を含めた鉱山技術を持つ黒川金山衆は他の金山を求めて四散する。そして土肥の金山や伊豆各地にその黒川金山衆が集まって来たらしい。
 豊臣秀吉は1590年(天正18年)3月土肥の高谷城・丸山城は豊臣水軍に攻められ落城する。そして7月、秀吉は小田原城を落し、徳川家康に伊豆と関八州を与えた。1600年(慶長5年)9月関ヶ原の合戦があり、勝利し、天下を握った家康は秀吉よりも金山政策を重視した。
 1601年(慶長6年)徳川家康は佐渡金山を幕府の直轄地とし、土肥の金山開発にも、重点を置きこの土肥の開発が増々進んだのである。それは鉱山の国有化である。出願があれば採掘を許可し、有望と分かれば、御用と称してこれを取り上げた。そこで諸侯はこれを隠蔽し、御直山(直営山)に対して御包山と呼んでいた。家康は自らの富の象徴として、純金の孔子像や純金張りの禹王像を献上させたり、身の回りの硯箱や茶道具なども純金で作らせたと言う。
 このようなことで、家康は、土肥を始めとする伊豆の諸金山の開発に重点を置いて彦坂小刑部元正を伊豆代官に任命し、金山奉行として土肥の金山を管理させている。

 黄金は誰でも欲しいと思う。金へのあこがれは、今も昔も変わらなかったようで、大昔から、鉱脈の発見の為に多くの「山師」が日本国中を歩き回ったと言う記録もあるようである。
 金は産出量の希少と光沢が美しく永く質を変えず柔らかく加工容易であるため古代から人類に珍重され、高貴な装飾用として、又通貨として憧れの金属として大切にされて来た。そのためにわが国の権力者も、その殆どが産金政策に重視して来たのである。
 一般には「金山」と言ったが、慶長年代頃までは「銀山」と呼ばれ、「金山」という呼称が定着するようになったのは、元禄以降のことらしい。
 また、昭和10年代になると、「鉱山」と呼ばれることが多くなったと言う。
 その理由は、銀は通常化合物として岩石中に含有されており、単体として取り出すには、複雑な工程を要したためと、銀の産出量は金に比べてはるかに多く、関西では早くから銀が貨幣として通用し、鉱山も、多田銀銅山、生野銀山、大森(石見)銀山などと呼ばれていた。しかし時代は下って、関東、東北で金が多く産出されるようになり、金の不変性から貨幣としての適質が認められるようになり、広く通用するようになると、関東以北で金が重用され、伊豆金山、佐渡金山、黒川金山などと呼ばれるようになったと言う。
 鉱山は、元来、有用鉱物の産出する所の総称であるが、時代が下って、昭和18年、金鉱業整備法の発令により、軍需品としての金山整備が進み、金銀産出の事業所は鉱山と呼ばれるようになったと言うことである。
 この土肥金山は明治から昭和にかけては、佐渡金山に次ぐ日本第2位の産出量があったと言われる。

※このような坑口が続いており、中間に所々に昔のあとが再現されている。 ※金山坑の入口である。昔の坑口を観光用に安全を重視した入口である。
※坑口の中間にこのような人形で昔の作業の姿を再現している。 ※坑口の中に温泉が湧き出ており、作業の合間に疲れを癒したのであろうか。
※250kgある「金塊」である。手では動きもしないが、触るとひんやりとした感触で表現のしようがない。
※「金塊」の値段である。24年1月13日の金格と言う。10億78百万円。

 こんな事を聞いてこの金山に来て見たが、日本の金山坑跡は観光として坑内めぐり等昔の繁盛期を再現している所が多く、整備されている。
 この土肥金山も昔の坑道めぐりや、砂金体験、黄金館等見学する所が多い。
 総延長百キロメートルにも及ぶ坑道は昔の人々がいかに金の採掘が大変だったかをゆっくり歩きながら見てまわれる。坑道内には電動人形によって江戸時代の金山採掘の模様を再現しており、300年前の現実を見ることが出来る。憩いの場に坑内温泉風呂があって、入浴シーンも人形で再現している。
 黄金館では、金鉱石など金山の産出品をはじめ、1/8サイズの千石船や江戸時代の様子を再現したジオラマなど貴重な資料が展示され、歴史の一端に触れることが出来た。
 貨幣展示コーナーでは江戸時代に鋳造された本物の大判・小判などの金貨を集めたギャラリーもあって、いろいろの金貨も勉強になる。また当時の複雑な貨幣制度がわかりやすく解説されている。
 すごいのは中に世界一の巨大金塊があり、本物で総重量250kg、底面225×455mm、上面160×380mm、高さ170mm、品位999.9と言う。この金塊、24年1月13日の現相場で10億78百万円この別に12.5kgの金塊、時価53百万円があった。
 この12.5kgの金塊は持上げる事が出来るが、かなり重かった。この金塊、どちらも厳重な箱の中にあるが手の入る穴があって、触ることが出来る。本物の金塊に触って、なでて触れてみる感動だ。そんな体験もここではの楽しみの一つである。

※12.5kgの金塊。時価53百万円。手に持つ事が出来る。 ※この金塊の横にこの看板がある。世界相場により時価の表示も変わる。
※砂金採集に夢中の観光客の方々です。意外と難しい。

 又砂金館では砂金採り体験コーナーがあり、興味のある人は大変楽しいコーナーと思う。巨大な温水槽にパン皿を入れ、砂と共にすくい上げ、砂の中から砂金を洗い出す。これも要領があるらしいが難しい。

 昭和の初め頃、この金山での採掘していた風景の写真が多く展示されていたがなんとも見ごたえのある写真だった。
 東京から比較的近いこの土肥金山を見学して、日本の金山の様子や先人の金山開発にかけた情熱や苦労が少しはわかったような気がする。何百年か昔から、金に対する日本人の情念みたいなものも感じた金山坑探訪だった。

※昔の金山坑の風景だが見るからに、すごいな〜と思う。トロッコ入口のようである。 ※内容はよくわからないが、地上に上げる再金現場のようにも見える。大がかりの地上口のようだ。

平成24年3月4日 記

参考書籍
 新版「土肥金山」土肥町教育委員会
 「土肥金山」土肥マリン観光株式会社


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