東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.151

〜歴史探訪 一人旅〜
「加賀藩江戸屋敷」と「東京大学」
青木行雄
※この門が東大の正門である。守衛はいるが自由に出入ることは出来る。左側に「古市公威像」があって、入ってすぐ法学部あり。
※クスの木の大木、東大内にはイチョウ、ケヤキに次ぐ樹木で、かなりの大木が何本かあった。
※東大の「赤門」。入って裏から写す。東大に12の門があるがどの門にも表札はない。昭和35年に全面的解体修理をしたと言う。
※安田大講堂、いかにも歴史のある建物で気品がある。この景観がすばらしい。
※総合図書館前の通り。イチョウの大木がおい茂り、雰囲気は最高であった。
※イチョウ並木。冬は落葉するので見通しは良い。今もすばらしい散歩道である。かなりの大木である。
※「三四郎池」の近くにこの解説板があった。日本語と英語で書かれていた。
※「三四郎池」が「心」の字に似ていると言う。今も昔の姿は変わってないらしい。しんと静まりかえっている。
 

 
 本郷の「赤門」と言えば知らない人はいない程有名であるが、縁のある人は少ないと思う。その東京大学の敷地がかつては加賀藩前田家の江戸屋敷であった事は知らない人の方が多いかも知れない。
 この度、この江戸屋敷に用事があって、行くことになった。以前にも何回か行った事はあるが、知らない方のために、少し詳しく説明したい。
 この東京大学に出入りする方法は、さしあたって3つある。一つ目は就職すること。二つ目は入学する方法。三つ目は単に足を踏み入れて日中営業や見学する方法がある。働く職場は数多くあって、教職員となり勤める他病院、食堂、生協、書店、美容院、花屋、時計屋、文房具等々がある。店は一通りあり小さな町を形成している。この人達や学生、教職員を入れると約2万人、日中営業や足を踏み入れる人を加えるとかなりの人口となるようだ。
 この程、構内を見学する機会があったので東京大学と江戸屋敷であった時代の事を記してみたい。
 始めに現在の東京大学の概要を説明してみる。敷地面積合計55ha(約165,000坪)、建物の延べ床面積90万u(約27万坪)あるようである。教養学部を除く9つの学部が集結していると言う。この構内に入るには「古市公威像」のある「正門」、歴史的有名な「赤門」を始め、右廻りに記すと「懐徳門」「春日門」「龍岡門」「鉄門」「池之端門」「弥生門」「西片門」浅野キャンパスの「浅野正門」「浅野南門」弥生キャンパスの「農正門」がある。
 池之端門のある附属病院側が東にあたり、正門側が日の沈む西側になる。
 赤門を入り、左側に行って、「総合図書館」前を通り、新緑のイチョウ並木を通る。正門の前から右に廻り、イチョウ並木を通ると正面に安田講堂がデーンと歴史の重みを感じながらどうどうと建っていた。
 そうだ先に赤門から入ったので「赤門」について先に記してみよう。
 この赤門は、1827年(文政10年)前田斉泰が将軍徳川家斉の娘、溶姫を迎え入れる際に造られたとされている。薬医門という形式を踏襲するもので、将軍家から夫人を迎える場合の当時の慣例で朱塗りとされた。現在、同種の門は他に残っていないといわれ、戦前は国宝であったと言う。
 関東大震災では瓦がずれる等したが、全体として被害は軽微であったらしい。
 2001年の正月からしばらくの間ライトアップされ、夜間、神々しいまでの姿で現れ話題になった事もあったと言うが、今は夜真っ暗で、すべての門には表札の類が一切ない。奇妙とも思えるが表札をもたず百年以上も続いていると言う東大の門。これも伝統と言えるのかもしれない。
 イチョウ並木から正面の安田大講堂を見ると冬は枯葉が落ちてかなり見通しが良く遠くから見える。7月は新緑が生い茂り、近くに行かないと見えない。新緑も大変良いが、東大内の景観はどこが一番かと聞かれればこの遠望する冬景色が学舎らしく大変すばらしい。
 散歩中の建物で歴史的に紹介したい物は数々ある。その一つに「三四郎池」がある。
 夏目漱石が『三四郎』を書くずっと前から三四郎池はあったのである。
 それは加賀藩邸の庭園、育徳園の池であり正式名称は「育徳園心字池」と呼ばれる。「心」の字に似たその姿は、今もほとんど変わっていないと言う。『三四郎』は、1908年9月から12月まで117回にわたって「朝日新聞」紙上に連載された小説で、日露戦争が終わった翌年の秋のことだと言う。
 この池が『三四郎』の小説の中に出て来た本物の風景を今でもそのまま見ることが出来ると思うと、静かで人影がなく、小雨が降りかけた池に新緑のグリーンが増して、今にも三四郎がそこにいるような気がして来る。
 やっぱりここは日本一の頭脳を教育するにふさわしい場所かな〜と思う。

 ここ東大の敷地の大半が、加賀百万石前田家の上屋敷だった。私が入った赤門前、正門前を南北に通る大きな道路は昔「中山道」で、南に行けば湯島聖堂と神田明神の間を抜け、そこから下って日本橋に出る。北に向かうと農学部正門前ですぐに分れて、中山道は左の道、岩槻街道は右の道を進んだ。本郷追分と呼ばれたその場所は日本橋からちょうど一里にあたるため、塚が立てられていたと言う。日本橋から歩いてくると、ざっと一時間程かかるようだ。中山道の最初の宿場は板橋であるから、ここ東大からまだ一里半ある。江戸の町の大きさを語るときに「八百八町」と言う言葉を使ったが、江戸がいかに大きいかをあらわす言い方である。又「朱引内」と言う言葉は、幕府が江戸の地図に朱線を引いて公式見解を明らかにしたことを指していると言う。
 加賀藩がどうしてここにあったか、関東平野を眺めて見ると江戸は武蔵野台地の最先端に建設されている。この本郷台地の東隣が上野台地で先端に寛永寺(現在の上野公園)が築かれ、南隣の日本橋台地の先端部には江戸城が築かれた。そして将軍を守るように譜代大名、旗本の屋敷が取り囲み、その外側に外様大名の屋敷が配置されたのである。加賀藩が上屋敷を本郷と言う江戸城からは遠く離れた場所に与えられたのは、外様の大藩であった事のようである。この加賀藩の目付役的かのように御三家の水戸徳川家の中屋敷が隣り合せにあるのも意味があるようだ。
 1868年(明治元年)江戸が東京に変わって、侍たちが徐々に姿を消して行った。東京から立ち去った者もいれば官吏や商人に生業を変えた者も多い。そして侍がいなくなったのだから、大名屋敷、武家屋敷もまたいらなくなる。跡地は様々に使われていった。東京の中心は変わらずに江戸城であったが、主が将軍から天皇に変わり、『日本史年表』を見ると、1868年10月13日、「江戸城を皇居とし、東京城と改称する」とある。大変興味があるので記したが、皇城、ついで宮城と名を変えた。宮城を中心に官庁や軍事施設の再編成が進む中で、高等教育の場も新たに形成されて行ったのである。
 幕末の時点で、中心は湯島聖堂と昌平坂学問所であった。洋学の研究教育の場として、九段下に開成所が、神田お玉ヶ池に医学所が設けられており、いずれも明治政府によって接収された。そして、教育方針が儒学から洋学へと大きく転換して行く。
 維新後の10年間に高等教育の組織は目まぐるしく変わって、一時、開成所が大学南校、医学所が大学東校と改名したのは、湯島聖堂から見てそれぞれ南と東にあったからで、やがて南校と東校はひとつになり、1877年(明治10年)に東京大学として発足したのである。
 そんなことから、この東大は本郷の加賀藩江戸屋敷跡に歴史を刻むことになったのである。
 こうして今東大内で用事を済ませ、散策しながら昔のことを思い出す。私は高校までふるさと大分県の中津で成長し、上京した。何十年も前の話であるが私の同級生でこの東大に入学した友人が7人いた。当時でも大変狭き門で大変な評判だった。今でも誇りに思っているが、このキャンパスで4年間を過ごした友人に乾杯の祝福を送りたい。

平成24年7月16日 記


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