東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.152

〜歴史探訪 一人旅〜
下関「春帆楼」と「日清講和条約」
青木行雄
※春帆楼」の表玄関、天皇、皇后両陛下がここから入られて、「帝の間」へ。
※表玄関入口横にこの史蹟があった。この横手前に講和条約会館がある。
※関門大橋、関門海峡を渡る大橋で、下関と門司、本州と九州を結ぶ大橋である。
※4階の「帝の間」から、関門海峡を望む。九州の連山が見え門司の町並が見える風光明媚な場所である。この貨物船と同様豪華客船もここを通る。客船から「春帆楼」を見ることになろうか。
 

 小倉から門司を通り関門海峡を渡ると山口県下関市になる。この海峡に関門大橋があって東京でのレインボーブリッジに匹敵する大橋で眺めも大変良い。この近くに下関市阿弥陀寺町がある。この地は元々阿弥陀寺の方丈のあった所で、赤間神社・安徳天皇御陵に隣接し、関門海峡を望む高台で、この寺が廃寺となった後、我がふるさと大分県中津藩の蘭医・眼科医藤野玄洋が買収して、1867年(明治10年)に医院「月波楼医院」を開院した。その後玄洋亡き後、未亡人のミチ婦人が、改造して旅館兼料亭として、後の総理大臣「伊藤博文」の命名により創業した割烹旅館が、「春帆楼」である。
 命名については聞く所によると、生前藤野玄洋と親交の深かった「伊藤博文公」が春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様子を見て、「春帆楼」と命名したと言う。
 関門海峡・豊後水道等は昔から「河豚(ふく)料理」で知られているが、この春帆楼の逸話を紹介すると、1887年(明治20年)暮れ、伊藤博文公がふらりと春帆楼に顔を出した時、海が時化続きで魚がまるで捕れない日で困り果てた女将藤野ミチは、お手討ち覚悟でご禁制のふく刺身一鉢を出した。豊臣秀吉による「フク禁食令」(朝鮮出兵の際、肥前名護屋城に駐屯していた兵士にフク毒中毒死が多かったため、禁止した)が当時まで続いていて、1882年(明治15年)発布の刑法(旧刑法)の違警罪目に「河豚(フク)を食ふは拘留科料に処す」と厳しく定められていた。しかし禁食令は表向きだけで、下関の庶民は昔から手料理でふくを食べていたし、伊藤博文公も高杉晋作ら幕末志士と何度も食べていたのでその味は知りつくしていたのである。でも、博文公は初めてのような顔をしてその美味を賞賛、翌年1888年(明治21年)に当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解いたと言う逸話がある。こうして春帆楼が「ふく料理公許第1号」として広く知られるようになったと言う。おもしろい話である。
 とにかく、眼前に広がるその景観と荘厳な佇まい。格調と気品の高い雰囲気は数々の歴史の表舞台を偲ばせてくれる。1958年(昭和33年)と1963年(昭和38年)の2回、昭和天皇皇后両陛下がお泊りになった御座所「帝の間」がそのまま保存されており、歴史の栄光を今に伝えているが、その四階、特別宴会場「帝の間」を我が学校の同級会に友人の紹介で使わせてもらい、とにかく大変光栄で感無量であった。眼下に広がる九州の山並みと関門海峡の流れを前に船の行き来を眺めながらの一時を過した。生きていて良かったと思う一瞬である。たまたま同級生の友人が誕生日にあたり、この春帆楼でその祝も重なり、皆でケーキを用意し、「ハッピー・バースデー」を歌うことになった。この場所でたまたま日が重なった彼は何と幸せだろうか。この関門海峡を豪華客船で10月に通る事になった。客船から「春帆楼」を逆に眺めた様子を記したいと思う。
 この「春帆楼」の場所で、今、日中両国の問題は深刻だが1895年(明治28年)あの日清講和条約が行なわれたのである。すごいことだと思うが、しかも会議が行なわれた場所がそのまま保存されているのもすごい事だと思う。

※4階の「帝の間」の入口にかかっていた。見晴らしの良いすばらしい部屋であった。
※「帝の間」の床の間にこんな立板がおいてあった。広い部屋で、関門海峡が一望出来る。ここは、会式の場所であるが、3階に特別室(貴賓室)があって陛下が泊られた部屋があると言う。
※1937年(昭和12年)、日清講和記念館が春帆楼の敷地内に設置されたと言う。館内には会議の様子が再現されている。
※当時の写真を再現したものである。写真や再現のテーブルなどを見ると、当時のことが想像出来る。

 それではこの「下関条約」ともいう条約を少し詳しく記して見たい。
 呼び方にもいろいろあって、会議が開催されたこの山口県の赤間関市(現下関市)の通称を「馬関」と言ったので、一般には馬関条約と呼んだとも言う。中国では、現在でも「約」と書くらしい。
 1895年(明治28年)、4月17日ここ「春帆楼」で調印された「日清講和条約」の概要は、

1.清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃上する。(第一条)

2.清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島など附属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)

3.清国は、賠償金2億テール。(当時日本円で3億6000万円)を日本に支払う。(第四条)(資料により金額が違う。)

4.割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)

5.清国は、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。(第六条)

6.日本は3ヶ月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)

7.清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)

8.清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)

9.条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)

10.条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される(第十一条)

調印
△ 大日本帝国全権弁理大臣  伊藤博文 (内閣総理大臣)
△ 大日本帝国全権弁理大臣  陸奥宗光 (外務大臣)
△ 大清帝国欽差頭等全権大臣 李鴻章  (北洋大臣直隷総督)
△ 大清帝国欽差全権大臣   李經方  (欽差大臣)

影響
△ のちにロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起こった。
△ この条約によって李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱して、大韓帝国となり、第26代の高宗が中国皇帝の臣下を意味する「国王」の称号を廃して、はじめて皇帝と称することとなった。

 この「日清講和条約」については奥が深くいろいろと難しい問題が沢山あり、このくらいにするが、この下関「春帆楼」で1895年(明治28年)に講和会議が開催されたと言うこと、何故東京では出来なかったのか、その所はわからないが、関門海峡を眼下に見るこの下関で、なかでも最も景観のいい場所に建つ料亭、「春帆楼」であったこと。何かの因縁があったのであろう。
 とにかく「ふく」は美味しいし、景観は抜群、歴史の奥は深い。交通の便も今は東京から新幹線で約5時間、昭和天皇両陛下も昭和33年と38年に2度もご宿泊された「春帆楼」で明治時代、日本の大きな分岐点、変化を認知、感動感激するのも人生勉強の一つかも知れない。

参考資料
 春帆楼 歴史の資料
 『日本史年表』 岩波書店

平成24年9月23日 記


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