東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(73)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 2011年は多難な年でありました。内外とも政治経済は混迷し、千年に一度という3.11東日本大震災は、地震、津波、原発事故という三重苦をもたらし、2万人の尊い命が失われ、30万人の被災者は不自由な生活を強いられております。未だ復旧、復興途上にありますが、私としても何も出来ないことがもどかしく、せめて企業の中で、災害に強い家づくり、街づくりに少しでも貢献したいと念じております。

 12月の連休は、八ヶ岳の麓にある会員制リゾートホテルに長野県に住む長男を誘い一泊、正月休みは軽井沢に家族で泊ってまいりました。八ヶ岳ダイヤモンドソサエティは30年以上前に入会したリゾートクラブですが、数年前に立ち寄りましたら、まわりの大自然の素晴らしさにすっかり魅せられて、以来頻繁に利用するようになりました。一昨年の正月に泊ったときは、年越しそばのサービス、ミステリーツアー、みそぎ神社初詣のイベントがありました。ミステリーツアーとは、宿泊客が深夜バスで出掛け、星空や遠くの夜景を見ながら走り、運が良ければ闇の中にキラリと光る鹿の目を見つけることが出来ます。そのときは叶わなかった鹿の群に今回遭遇しました。この地域に棲息する鹿は小型で白いハート型のお尻が特徴です。
 八ヶ岳は、赤岳はじめ3千米級の八つの峰で構成されています。両側の裾野を延長しますと富士山より高い位置で交わりますので、5千米を超える山が天変地異で崩れて八つの峰が出来た、という説もあります。これは当地に伝わる神話ですが、「大昔、八ヶ岳と富士山はどちらが高いか背くらべをしよう、ということになり、両者の頂上の間に長い樋を渡し水を流した処、富士山の方へ流れた」そうです。当地は山紫水明、夜は満天の星が美しい。夏は避暑地として涼しく、冬は雪を頂いた山の眺めが素晴らしい。

 正月元旦は、初詣に出掛け、お雑煮を頂いた後、関越自動車道を一路西に向いました。夕刻の妙義山一帯の山の偉容に圧倒され、粉雪舞う軽井沢のホテルに着きました。翌日は恒例の箱根駅伝を途中まで観戦し、浅間山方面へ出掛けました。15年前、中山道中では、真夏で、碓氷峠越えは難儀しました。「木曽の桟(かけはし)太田の渡し碓氷峠がなけりゃよい」と謳われた中山道三大難所の一つです。
 途中から有料道路を行きますが、吹雪舞う浅間山は絶景です。鬼押出しは冬期で休業中でしたが、雪を被った熔岩の群の中に赤い鳥居が見え、今にも鬼が出現しそうな光景でありました。これ以上進むと雪道となって危険を感じ、Uターンして照月湖に向います。昔草軽電鉄の終点であった北軽井沢は、駅舎の建物はありましたが、鉄道は撤去され、奥の別荘地は荒れ果て、照月湖の畔に出来た、北海道から「どさんこ」という種の馬を連れて来て開いた乗馬クラブがありましたが、訪れる客もなく、十頭程の馬が人を恋しがって寄って来ました。帰途、中軽井沢駅前の老舗「かぎもとや」で名物手打ちそばに舌鼓を打ちました。食事の間中、調理場から、トントンとそばを切る心地良い音が聞こえて来ました。
 中軽井沢は宿場当時は沓掛(くつかけ)と呼ばれておりました。街道脇に沓掛時次郎の石碑がありました。「千両万両枉げない意地も人情からめば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」街道交差点に沓掛時次郎を顕彰する大きな板の看板が掲げてあります。
 長谷川伸の名作で、番場の忠太郎で有名な「瞼の母」と並び称されています。中山道をもっと西へ行きますと、琵琶湖の手前、番場宿にある蓮華寺境内には架空の人物忠太郎の墓があります。
 ホテルへ戻る車中の放送で、箱根駅伝往路五区を走る、東洋大学山の神、“男”、柏原は、小田原中継所でトップで受け取った袂を快走で、2位早大との差を5分以上に拡げて往路優勝を遂げたことを知りました。昨年の22秒、僅か百米の差を詰め切れず、2位に泣いた悔しさをばねにして、翌日1月4日から猛練習した成果が今日の快挙となったのでしょうか。柏原君は福島県いわき市の出身で、被災地の人達にとっても大きな力となったことでしょう。「僕が苦しいのは1時間と少しで、被災地の苦しみに比べれば…」これには被災者でなくても泣けて来ます。

 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」
 これは琵琶法師によって語り継がれてきた名作『平家物語』の冒頭です。
 今年のNHK大河ドラマは「平清盛」です。大河ドラマは時代を反映していると云われます。今年の干支 龍のように上昇する若き日の清盛は自信を失った日本人に希望を呼び戻してくれるのでしょうか。




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