東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(77)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 東海道ネットワークの会主催十周年記念イベント「宿場ラリー」は成功裡に終了し、一つの大きな節目となりました。これも幹部諸氏の綿密な計画、実行委員のパワーある指導、それと全会員の協力によるものでありました。私も25日間のうち4度参加しましたが、体力の衰えは如何ともし難く、何とかついて行くのがやっとでありました。
 今年の3月行なわれた「京都鯖街道を歩く」と銘打った例会は仕事で参加できず、6月予定の「蒲原宿散策」の例会も都合がつかず誠に残念。そこで今回は、原宿から吉原、蒲原、由井、興津まで、回想も交えて歴史探訪をします。

 原宿は私が平成6年、東海道中を始めて最初に泊った宿場でありました。当初は単独で始めて、一体どこまで続くのか、半信半疑で歩いておりましたが、箱根の難所を越えた辺りから、若しかしたら京都まで行けるのではないか、と思うようになりました。原宿からは、友人の萱原画伯を誘い出すことに成功し、初めての弥次喜多道中となりました。若し、画伯の協力がなければ東海道の踏破はできなかったことでしょう。それまでは、その日の体調によって出立し、途中疲れたら中断して戻りました。案内図もなく、唯一の頼りは、箱根甘酒茶屋で買い求めた、安藤広重の浮世絵ミニポケット版のみでありました。原宿のお女将に教えてもらった旧東海道に沿って歩き出しますが、途中で道を見失しない、岳南鉄道の須津(すど)という無人駅に出ます。画伯はここで初めての画題を得て、夢中になってスケッチブックに鉛筆を走らせ、私がローカル鉄道を終点まで行って戻って来る一時間足らずの間に、仲々の名作をものにしました。結局、終点の吉原まで電車に乗り、富士川まで歩いてその日は終りました。

 東海道ネットワークの会「吉原散策」の例会で、平家越しの碑を見学しました。街の古老の説明によりますと、富士川の西に布陣していた平家の軍勢が水鳥の大群が飛び立つ羽音を源氏の襲撃と勘違いして逃げた場所でありました。ここは富士川からかなり東に寄っており、背水の陣ということはあり得ないのですが、富士川の流れが変わり今の位置になったとの説明で納得しました。

 富士川の東、蒲原宿の近くに、名所義経硯水跡があります。義経が奥州へ下る途中、矢矧の長者の娘浄瑠璃姫に手紙を書いた際、硯の水にここの清水を使ったと伝えられています。一方、沼津宿と三島宿の中間、黄瀬の東にある八幡神社の境内に、頼朝と義経がここで初めて対面し、そのとき兄弟が座ったといわれる石が二つあります。以仁王の平家追討令が出て、頼朝が旗揚げし、義経は奥州から馳せ参じましたが、果たして義経は富士川の戦いに参加していたのでしょうか。

 広重の五十三次中最高の傑作と云われる「蒲原夜の雪」は不思議な構図です。私が通った海沿いの道には漁村の家屋が並んでいて、それだけでも趣がありました。ここは極めて温暖な地域でめったに雪が降りませんが、降らない雪で家屋を覆ったのは広重による素晴らしい創作であると思います。その手腕は薩でも遺憾なく発揮されています。萱原画伯も薩の絶景には圧倒されたようで、私と共著で出版した『ぶらり東海道旅日記』の表紙を自信作で飾ることになりました。6月の例会で寄る予定になっている東海道広重美術館は私達が通ったときは、由井本陣跡のみで、完成間際で見ることができませんでした。
 東海道ネットワークの会理事の手島氏が当館の発足から版画の買い付けにご尽力されたことを会報で知りました。そのようなご縁でネットワークの会の紺色の旗も、由井正雪の生家で今でも続いている紺屋で作って戴きました。

 富士川からの道中の日、画伯は法事の為、私が先行して興津で宿を探し、駅に時刻を決めて迎えに行く手筈になっていました。薩を下りて興津川を渡り、宿探しを始めるのですが、小綺麗な旅館は私の風体を見て断られ、何軒か探して歩くうち、うちでは泊めないが適当な旅館を紹介してくれる処があり、勇んで門を叩くと、二つ返事でOKを出してくれました。疲れて部屋で横になっておりますと、お女将が入って来ました。実は自分一人ではなく相方が駅に着くので約束の時間に迎えに行って来ます、と云うと、お女将はすかさず、「その人は女の人ですか」と訊かれ、一瞬、ドキッとしました。恐らく私が訳ありの女性を連れこむのでは、と気を利かせてくれたようです。「いや、男の人です」と答えましたが、何回か断られた理由が半分位分りました。旅に出るには予定を立て、泊る場合は前もって予約しなければならない。原宿に泊ったときは前回の最終地点に旅館があり、たまたま旅館の看板から電話番号を調べて予約してあったので難なく泊ることが出来ました。この経験と失敗から学習して、一ヶ月後、新居宿に泊るとき、何とか二人分の宿を確保したのはよかったのですが、しかしそれだけでは不十分であったことを後で知りました。二人と云った為、先方は訳ありカップルと勘違いされ、私が一足先に着いて部屋に入りますと、二組の蒲団と浴衣が用意され、一つは女性用の赤い帯が用意されていました。
 興津宿に一泊した翌日は、二人で清見寺まで行き、その後画伯は薩、清水港のスケッチをし、私は勝手気儘に歩き、静岡駅で合流して帰りました。

 私が学卒後、ゼネコンに入社し、初めて東京を離れて赴任した職場は、東名高速道路建設で愛鷹工区と云って、沼津と吉原の間、約五千米の区間でした。原駅の近くの民家を借りて、現場近くの土地に仮設事務所、従業員と作業員の宿舎を建て、東海道の大動脈となった東名高速道路の工事に携わりました。東京名古屋間で三千八百億円かかったと記憶しています。当時の日本は財力が乏しく、世界銀行から融資を仰ぎました。融資の条件に国際入札が義務付けられていましたので、図面の説明も英語で記されており、積算作業は辞書と首っ引きで行いました。原宿のお女将にはどこかで会ったような気がしました。彼女も私を見た記憶があると仰っておりましたが、三十年以上も前のことで、互いそれ以上の詮索はしませんでした。

 静岡県は私共の企業で地震に強い家の提案をした際、多大な恩恵を賜りました。阪神淡路大震災以降、研究開発を始めた工法が、2000年に完成、特許を取得しました。静岡県ではトーカイゼロプロジェクトと銘打って全国から耐震工法を募り、当社では応募しましたが、約250社中ベスト8に選ばれて、静岡県の指定工法となりました。以来十年余リフォームでは静岡でNo.1の実績を積み、次の目標を全国展開と定め邁進しております。
 その様な訳で、私個人も企業としても静岡県には大いに思い入れがあります。東海道にある五十三の宿場のうち、三島から白須賀までの二十二宿が静岡県にあり、これからも生涯関わって行くことでありましょう。

蒲原 かんばら(静岡県静岡市) 由井 ゆい(静岡県庵原郡由比町)



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