東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(78)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 5月21日、日本では百年に一度の天体ショーと云われる金環食があり、翌22日、東京スカイツリーが営業を開始しました。昨年3月11日起った東日本大震災のときは、構造躯体は完成間近でしたが、微動だにせず、その技術は高く評価されております。

 今回はスカイツリーの周辺について歴史探訪します。
 「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
 平城天皇の孫で六歌仙の一人、業平が在原姓をもらい、在原業平(825−880)となりました。「昔男ありけり…」で始まる『伊勢物語』は業平が京で高貴な女性と道ならぬ恋に落ち、逃げるようにして東国に旅に出た体験に基づいて書かれたと云われています。『古今和歌集』にある和歌「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」は百人一首に選ばれました。旅の途中で池鯉鮒という東海道の宿場の近くに、小川が八方に交叉し、八ツの橋が架かっている名所があり、庭園に杜若(かきつばた)が咲いておりました。同行の旅人に、この花の名を織り込んで和歌を詠んでみては、と云われ即興で「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」と詠みました。同行の人達はあまりの見事さに涙を流し、餉(かれいい)と云って、おむすびを干して作った携行用のお弁当の上に落ちてふやけてしまいました。

 私が東海道中で丸子宿から岡部宿に向う途中に蔦の細道という小高い山を越える名所があり、昭和天皇の和歌と共に業平の歌碑を見た記憶があります。「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあわぬなりけり」

 隅田川を渡るとき、白くて口ばしの赤い鳥を見て冒頭の和歌を詠み、この故事によって後に架けられた橋は言問橋と名付けられました。業平が歌に詠んだ都鳥は、チドリ目カモメ科カモメ属の鳥で、ゆりかもめのことであったようです。中学生の頃、通学で総武線の電車が隅田川を渡るとき、ゆりかもめが群をなして飛んで来て、鉄橋や電線にとまるのを見て、友人に「これが都鳥だ」と教えられました。豊洲から新橋へ音もなくゆっくり走るモノレールの電車に「ゆりかもめ」という愛称がつけられ、業平が歌に詠んだ都鳥のことであることを知りました。ゆりかもめは平安時代から隅田川の河口を棲息地としていたようです。

 スカイツリーが完成して業平橋駅は「とうきょうスカイツリー駅」となりました。江戸時代の地図を見ますと、大川と云われた隅田川から水を引いて、北十間川、横十間川、小名木川、曳舟川が開削され、舟運の便の良い処でありました。曳舟川は江戸時代、中川から水を引いて本所、深川の住民に飲み水を供給しました。後に飲料に適さなく廃止され、岸から綱で舟を引いた為曳舟川と呼ばれましたが、埋められて、京成電車と東武線の駅に名を留めています。
 北十間川の北側は東武電車の車庫になっており、線路の太い束がありましたが、橋を渡ってかつては東京一の盛り場浅草と繋がり、地下鉄になって生じた大きな敷地を活用して、スカイツリーと周辺の街は多くの来場者で千客万来の賑わいとなることでしょう。浅草には凌雲閣という52米の高層建築があり、通称浅草十二階と呼ばれておりましたが、大正12年(1923)関東大震災で倒壊しました。
 業平橋駅は明治35年東武鉄道開業当時は吾妻橋駅でありました。これは北十間川のほとりに吾嬬神社があった為で、町名がまだ吾妻橋1丁目〜3丁目として残っています。
 これは『日本書紀』や『古事記』に登場する日本武尊命が東征中、相模から上総に渡る途中、海が荒れ、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身を投げて鎮めました。日本武尊命は「吾嬬はや(わが妻よ)」と嘆き悲しみました。流れ着いた妻の遺品がこの吾嬬神社に納められたという言い伝えによるものです。

 今、有明で街づくりに関わっており、その仲間に、スカイツリーの企業主である東武鉄道と施工された大林組がおられますが、そのご縁で開業前の5月17日に招待賜りました。当日は生憎の曇り空でしたが、450米からの眺望は格別で、隅田川に架かる白髭橋、桜橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋も手に取るように見ることが出来ました。両国国技館と並んで江戸東京博物館があり、一時話題になったアサヒビールのあの金色の炎のオブジェもあります。
 周辺には池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみ、長谷川平蔵が活躍した街や、勝海舟、葛飾北斎、榎本武揚の生誕地もあり歴史の宝庫であります。いつの日か、スカイツリーを眺めながら探訪したいと思っております。




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